COLUMN
週刊宝石休刊〜母校の廃校に際して。(01.2.18)
我が家には毎週、毎月、数冊の雑誌が送られてくる。最近、そのなかでもっとも古い一冊がなくなった。
『週刊宝石』2月8日号、928号目をもって休刊。昭和56年創刊というから、実に19年間続いた男性総合週刊誌である。しかも、僕にとっては、特別な雑誌だった。
「おい、**学園の子供たち。プランちゃんと考えてきたか」
そんなデスクの声が忘れられない。
「カワバタ、てめぇ、いい加減にごまかしてんじゃねぇよ」
そう恫喝されるのがものすごく怖かった。
あの頃、僕はまだ23歳で、社会人としても、マスコミの端くれとしても、本当に駆け出しで、まだ何にもわかってなくて、本当にペーペーだった。
それにしても、いま改めて考えても、週刊宝石というのは、くだらない雑誌だったと思う。文春やポストのように、スクープを飛ばすことはめったにない。取材に行けば「週刊朝日」と間違えられる。二流とは言わないが、一流半、そんなポジションの雑誌だったと思う。
初めての取材はいまでも覚えている。
337号「夢の一戸建て!新幹線通勤に同乗取材」。宇都宮と仙台へ行って、朝の改札口で東京へ通勤していそうな人に声をかけて、新幹線に同乗させてもらう取材だった。ものすごくドキドキしたけど、「週刊宝石特派記者」、そんな名刺を出して、取材をすることが何だか誇らしく、嬉しく感じたのを覚えている。23歳の秋だったと思う。
その直前までの僕は、仕事もなく、金もなく、肩書もなく、本当に貧しくて、みすぼらしく、経済的にも、精神的にも、ひもじさでいっぱいだった。そんな僕に、ゴールデン街の先輩が声をかけてくれて、その紹介で、僕は週刊宝石の面接を受けることができ、面接と作文という2度のテストの後で、採用してもらえたのだった。
毎週6万円くらいのギャラがもらえた。おまけに経費もたくさん使うことができた。
「もっと酒を飲め」「もっと人と会え」。そう言って僕のデスクは、週に何万もの経費を使わせてくれた。いまの僕が飲み屋が大好きなのは、あの頃の生活のおかげだと思う。もっともいまは経費を切らせてくれる相手がいないので、僕の貯金通帳は大変なことになっているけれど。
面接を担当したデスクが、初日に「おまえテレコも持ってないのか」と自分の財布から2万円を出して渡してくれたのを覚えている。とてもいい人だと思ったのだが、それからは毎週毎週プラン会議で、僕も含めて同期の記者3人を叱り飛ばす怖いデスクに変わった。
「おまえ要領よく手をぬいてんじゃねぇぞ」
その通り。
僕は要領がいい方だったと思う。数ヶ月後にはコツをつかんで、効率的という大義名分のもと、手の抜き方を覚えた。
「おまえの原稿は骨だけなんだよ。エピソードだよ、エピソード!」
確かに。
要領がよくて、効率的な僕の原稿は、筋は通っているが、面白味に欠けていた。
無駄な動きや話をすることの大切さ、そして真実を伝えるために必要なのは、事実の羅列ではなくて、その周辺にあるエピソードなのだ、ということを、僕はあの時期に学んだ。デスクの鋭い指摘や、やたらとのめり込んで取材をする先輩を見ながら。
それにしても、色々な企画をやった。一応、僕らの班は経済班だったから、「金利反騰財テク作戦」「NTT株」「外貨預金」とか財テク企画が多かったが、それでも「FM開局ラッシュ」「ファジィ」などの経済トレンド、さらには「ソープ突撃」とか「田原俊彦と中山美穂」なんかもやった。
とにかく、あの当時の週刊宝石という雑誌は「何でもあり」というか、「ノリ」に溢れていた。編集部ではいつも馬鹿話に花が咲いていて、豊丸などのAV嬢のオマ○コの写真がその辺に落ちていたり、ソニーだとか松下だとか、そんな大会社の社長に突然電話して「この本読みましたか」ときいたり、転換社債とワラント債とはどう違うのかを延々話し合っていたり…。とにかく活気に溢れていた。
週刊宝石を出てから、この10年間にたくさんの編集部を訪れたけど、あんな動物園のように賑やかな編集部はどこにもなかった。
「処女探し」や「おっぱい見せてください」「OLの性」という週刊誌史上に燦然と輝く名物企画を生み出せたのも、そんな雰囲気があったからだと思う。
3年と少しお世話になって僕は週刊宝石を辞めた。だってものすごく疲れきっていたから。
以前このコラムでも書いたことがあるように、毎週毎週のプラン出し、一夜漬け勉強、綱渡りのアポ取り、週に1、2度の徹夜…そんな生活に疲れて切っていた。それが辞めようと思った一番の理由。前の週に何をやったかを忘れてしまうような仕事を、あれ以上続けることができなかった。
そしてもう一つ、正直に嫌らしいことを言えば、宝石を辞めても、フリーとして、仕事をやっていける力を身につけたと、感じ始めていたことも理由の一つだったと思う。
3年の間に、マスコミとは何か、取材の方法、あるいは譲ってはいけない一線はどこにあるのか…を僕は週刊宝石で学んだのである。その意味で、週刊宝石は僕にとって、学校のようなところだった。デスクは先生で、先輩も、同級生もいる学校だった。
フリーになってからも、週刊宝石では何度も仕事をさせてもらった。特にJリーグが始まってからは、僕自身の名前が掲載されることもあった。
初めて週刊宝石に僕の名前が出たのは93年。Jリーグ企画のなかで、「スポーツライターの川端康生氏は…」というコメント掲出だった。かつて自分が取材して、「○○氏はこう言う」なんて書いていた雑誌に、逆に自分が取材をされて名前が出ることは、何だかこそばゆいような、でも自分も頑張ってきたんだ、という自信にもつながったものだった。
いつかすっごく偉くなって、週刊宝石で連載をできればいいな、そんな恩返しができれば最高だな…。恥ずかしいけど、そんなことを夢想したことも何度かあった。
一方で、辞めてからしばらく経って、編集部の空気に違和感を感じることが多くなった。何だか馴染めなくなったのである。たまに立ち寄っても、何だか居心地が悪くて、手持ち無沙汰だった。無駄話をしてくれる相手がいなかったのだ。
もちろん異動などで知った顔が減ったということもある。でも、かつてあれほど馬鹿騒ぎをしていた編集部が静かになった気がした。それは少しさみしいことだった。
それからはすっかり足が遠のいた。同時に編集部から僕への声もかからなくなった。だから、ここ数年、僕はほとんど週刊宝石で仕事をしていない。
最後に仕事をしたのは830号。「日本一のFin」。99年元旦天皇杯を制して消滅した横浜フリューゲルスを報じるグラビアページだった。そこに「スポーツライター・川端康生」として、僕にとって最後の原稿を書いた。
あれから2年。週刊宝石はなくなった。編集部にノリがなくなったから休刊になったのかどうかはわからない。もっと他に大きな理由があるという話も聞く。でも、もしも雑誌が続いていたとしても、僕が知っている週刊宝石はすでになくなっていた。
僕が知っている週刊宝石は、くだらない雑誌だったのだ。
くだらないけど面白い雑誌であるためには、くだらないことを面白がれる編集部員がいなければならない、のは当たり前だ。
でも、晩年の週刊宝石は、僕にはそうは見えなかった。
そのことを僕はくだらないと思う。
くだらない雑誌がくだらなくなくなったことが、くだらないと思う。
だって、世の中なんてくだらないことのテンコ盛りじゃないか…。なんてことまで言うと、言い過ぎかもしれないけれど。
とにかく、晩年の週刊宝石は僕には、イマイチつまらない雑誌に映っていた。僕なんかよりも、ずっと長い間あの雑誌にかかわってきて、ずっとずっと愛情を注いだ人には「おまえなんかに…」と怒られそうだけど、とにかく僕にはそう見えていたのだから、しょうがない。
それを栄枯盛衰だとか、メジャーになった勘違いだとか、そういう理屈で語るのは簡単だし、僕もそう思わないではないけれど、でも、いまここでは、そんな能書きよりも、僕の知ってる週刊宝石はもっとくだらないことを面白がれる人たちが作っていた、とあえて書いておきたいと思うのだ。
先日、当時のデスク、先輩、同僚たちと久々に、本当に久々に会って、飲んだ。
実は昨年末に「休刊」を知ってから、少しばかりおセンチな気分になっていた。母校が廃校になるような、そんな思いだった。
でも、先日、久々に会って飲んで、僕は気づくことができた。廃校になっても、恩師や幼馴染は残るのだ。
そんな、社会人としての先生や同級生をもつことができたことを、本当にありがたく思う。会社に入らず、ずっと一人でやってきた僕にとっては、それはかえがえのないものだから。幼馴染を大人になってからは作れないように、彼らのような人たちをいまから僕は作ることはできないのだから。
そんなわけで、休刊、いや廃刊はとても残念だけど、週刊宝石には、本当に本当に感謝している。