[After 2001.9.11D]
テロから1年9ヶ月が経って。 03.6.17
2003年6月です。季節はちょうど梅雨。ここのところ湿気の多い日々が続いています。
さて、あの「9.11」から1年9ヶ月が経ちました。
この間、アフガニスタンとイラクが攻撃されました。でも、そのターゲットであったはずのビンラディンとフセインは見つかっていない(それに大量破壊兵器も)。
結局、アフガニスタンとイラクで暮らす人々のうちの何十人か、何百人か、何千人かの人々がミサイルや戦闘で殺され、アフガニスタンとイラクで暮らす人々のそれまであった日常が失われ、それからアメリカ兵やジャーナリストが命を落とし、そのためにたくさんのお金が使われ、それによって儲かった業界と損害を受けた業界があり、いくつかの国で法律が改正されたり、新法が作られたりするのを横目で見ながら僕たちは2003年6月まで辿りついたというわけです。
イラク戦争の前、最中、後のいずれのタイミングでも、この[AFTER 2001.9.11]に綴るべきことはたくさんありました。でも、あまりにたくさんありすぎた。
しかも日々生まれ、変わり、動き続ける事態の中で、どうにもこうにも考えをまとめられなくて、また日々の一次感情を言葉に置き換えるべきかどうかで迷っていたこともあって、ずっと延ばし延ばしにしてきました。もちろん仕事との兼ね合いもあった。
ただただ唱えていたのは「私は正しい戦争よりも、不公平な平和を望む」というキケロの言葉でした(昨年僕が出版した「冒険者たち」(学研)という単行本のあとがきの一番最後にも書き記しました)。
そんなわけで事態も、仕事も落ち着いたようなので、2003年に入ってからの半年間について覚書としてそろそろ記しておこうと思います。
僕にとってこの半年間は、これまでここで書いてきたことの顕在化であり、そこから新たに派生する逡巡とか疑念、そして当然起きる気持ちの揺れ、の毎日でした。
前にも書いたこと――
アメリカという国の強大さが際立ち、その一方で孤立もまた際立ってきた。彼らは時に哀れで、滑稽でさえある。
僕たちはテロリズムに組することはもちろんないが、ブッシュ大統領の側に立つわけでもない。そして、そのことによって逆に世界は「一つ」になっていくような感触を感じる――は、今年3月の「アメリカによるイラクへの先制攻撃」によって「感触」から「確信」へと変わりました。
何とか開戦を回避しようと世界のあちこちで人々は声をあげ、民族や人種を越えて団結した。
攻撃が開始された後も、戦争反対の声がやむことはありませんでした。
ヒューマニズムの文脈で叫ばれる「NO WAR」ももちろんですが、僕はそれ以前に、あるひとつの国がどういう道を歩んでいくかを決めるのはその国の人であるべきで、何がどうであれ他国と他国民が干渉、それも武力によって干渉していいものではないと考えます。
もしも日本に、あるいは自分の家庭に、よその国の人や他人が、その人たちの常識と正論を振りかざして乗り込んできたら……僕は断固として戦います。余計なお世話だと怒ります。そういうことです。
それぞれの国や家庭には、よその人から見れば「おかしい」と思えることが大抵あるし、それでもその国や家族はうまくやっていたりするものです(たぶん西欧からみれば日本だってかなりいびつな変てこな国に見えていると思う)。
世界中の人が「戦争反対」で団結できたのは、そんな「主権」の大切さを知っている人がたくさんいたからでもあったと思います。
もっとも「人々」は団結することができても、「国」はそう簡単にはいかないこともこの半年間でよくわかりました。
特に日本の人々である僕たちは、日本の政府が世論とアメリカ(政府の人々は「国益」という)と国連との間で困惑し、結局「アメリカ」を選択するプロセスをつぶさに観察することになった。
戦後六十年が経ち、すっかり大人になったつもりでいたのに、実はまだ親の庇護下にあるのだという現実を突きつけられ、親離れを叫ぶ人もいれば、沈思黙考する人もいた。
それ以前からあった改憲論(9条の問題とは別に)や、せめて母国語によって憲法を書き直そうという試みはいまも続いています。
確かに原文が母国語でなく、占領下で占領国によって作られた「憲法」をいまもありがたく戴いているのはおかしい。
また日本がイラク攻撃に(実質的に)参戦していくプロセスでは、僕は、想像力が絶対的に不足し(あるいは想像力を喪失し)、無関心(少なくとも当事者意識は皆無としかいいようがない)な「僕たち」日本人に、苛立ちともどかしさを覚えずにはいられませんでした。
それは苛立ちとかもどかしさを超えて憤りにも変わったし、時には情けなくもありました。
しかも、そのくせ多くの日本の人々は漠然とした不安を抱き、癒しを求めていたりするのです。
ラジカルに言い放ってしまえば、随分贅沢な話だと思います。
「漠然」だからこんなテイタラクになってしまうわけで、本当に生身で傷つけられれば日本人も目を覚ませるのではないだろうか、なんてことも考えたりもしてしまった。
(一応「ラジカル」なんて前置きをしましたが、本当はもっと痛烈な非難をする人もたくさんいます。例えば丸山健二氏あたりに言わせれば「生きるのが楽だともっと楽がしたくなる。戦後の混乱期や戦中などひどい時代には誰も癒しなんていわなかった。生きているうちは癒しなんかないのが普通。あの世へ行ってから求めればいいんだから」ということになります)。
とにか、くいかに世界が「一つ」になった心強さを感じるとはいっても、僕は日本という国に属する、日本人という国民で、いかに世界や平和について考えていても、そこから逃れることはできなかった。
付け加えるならば、アフガニスタンやイラクでたくさん盗み出された文化財は当然富裕国のコレクターに売られるのだけど、日本人の手に落ちたものも少なくないということです。
タリバンがバーミアンの石像を壊した時に「僕たち」は激しく非難をしたのだけど、その「僕たち」は一方では似たような文化的犯罪を犯している。
俺はそんなことしない、という「僕たち」もいるかもしれないけれど、日本人以外の人から見れば、「僕たち」はそういう国民だということです(しかもアンコールワットの仏像を盗もうとしたアンドレ・マルローのような根源的な欲求がそこにあるとも思えないのが悔しいです)。
メディアに関しては、イラク戦争で「戦争報道」は劇的に変わりました。
湾岸戦争の時にも驚いたけれど、今回は戦車と一緒に記者とカメラマンが進軍し、なおかつそれをライブで放送していた。
もはや「戦争報道」ではなく「戦争中継」でした。スポーツと同じように戦争も、カメラで映され、衛星を経由して、電波に乗って茶の間に届く。
だとすればカメラのアングルやフレームを決める人間、伝えるべき情報を取捨選択する人間のセンスが問われます。
センス、観察力、洞察力、表現力、そして良心であり、人間力が問われる。
そこまでの人格をメディアが持っているかどうか。蓄えているかどうか。養っているかどうか。
これはメディアに突きつけられた大命題です。でも、突きつけられていることさえ感じていない人もいるみたい。
女性レポーターの一次感情を中心に特番まで作ってしまったテレビ局がありました。あれでは衝撃映像番組と大差ない。
飲み込んで、反芻し、噛み砕き、血や肉として染みわたってからアウトプットする余裕というものが、もはやテレビには時間的にもビジネス的にも哲学的にもないようです(正直、僕はいまの地上波民放テレビに報道は難しいのではないかと思っています。それはテレビというメディアの特性と企業としての構造ゆえです。いつか気が向いたら書きます)。
そんなこんなで2003年6月です(覚書なのだから、あっちこっちへテーマが飛んでもいいからあれやこれやとメモしていくつもりだったのですが。どうもうまくいきませんでした。もっともっと他に大事なことがあったような気がするのだけど)。
とにかくこの1年9ヶ月で、世界中の人が思い知ったこと、それは「アメリカは強い」ということでした。
どう強いかといえば「武力的に」です。それも「圧倒的」に。
でも、だからと言って、ケンカが強い奴が本当に強い奴とは限らない、ことを僕たちは知っています。
武力に対抗するものは何か。
ちょっと前なら「ペン」と言われました。ジャーナリズムという意味だと思います。
では、いまは? これからは?
武力に、アメリカ的な力に対抗する「何か」を模索する旅を世界中のあちこちで、たくさんの人々がもうすでに始めています。
僕も考えてみるつもりです。
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