僕と家と土地についての覚書 03.12.7
茅ヶ崎に引越して約1ヶ月が経った。僕にとって……何度目かの引越である。この機会に、自分と家、土地について整理しておく。
僕が生まれたのは大分県の中津市である。中津市は福沢諭吉縁の地で、僕が最後に訪れた十数年前には駅前に「1万円札の町」という看板が出ていた。
中津市にどのくらいいたのかはわからない。幼少の頃に福岡市に移り住んだので。小学生から中学にかけて毎年1、2度祖母の家を訪れていた頃のことを思い出してみても、あまり大したことは浮かんでこない。ただ祖母が住んでいた家の玄関で、きりぎりすだったか鈴虫だったかに噛まれたこと、それからその近くにあった鶏舎の迫力と匂いは何となく覚えている。あとはおばあちゃんと一緒に市営プールに遊びに行ったこと、それから福沢旧邸を訪れたこと。そんなもんだろうか。
福岡でははじめ雑餉隈というところに住んだらしい。でも、残念ながらまだ僕にはその家の記憶もない。
記憶に残っている最初の家は、同じ福岡市の大手門にあるの狭いアパートだ。狭くて暗かった。事実かどうか自信がないが、汲取り便所から糞尿をすくい出すためのホースが部屋の中を通っていくシーンの記憶がある。
日曜の朝に家族3人が川の字になって寝ているところに、うんこ取りの人たちが来て、部屋の中に長靴があがり込み、うんこを吸い込むためのホースが這って行く様子が、何だか怖かった。きれい好きなうちの母親が、必死で部屋に新聞紙を敷いていたようにも思う。いずれももしかしたら後になって捏造された記憶かもしれないけど。
そういえば子供の頃、母親に「ちゃんと勉強しないと、あんたも『うんこ取り』になるよ」と脅されていた。僕は子供ながらに母親はヘンなことを言うと思っていた。だって、そのうんこ取りの人たちにうちはうんこを吸い上げてもらっているのではないか。まして、職業に貴賤はないとか、人間はみな平等だとか、普段言っている大人がそんなことを言うのは筋が通らないではないか、と考えたりもした。だったら俺は東大を出て、うんこ取りになってやろう、なんてことも考えたように思う。
大手門のアパートには4歳くらいまで住んだ。その後、やはり中央区の大名にある公団住宅に入った。母の話によれば、当時としては相当モダンな建物だったらしい。なんせ洋式便所だった。昭和40年代前半である。いまから30数年前。洋式便所はまだ珍しかった。
ちなみに中津のおばあちゃんが来た時に、洋式便所の使い方がわからず、結局便器の上にうんこ座りをして用を足したということもあった。
その他にも大名第二公団にはエレベーターがあって、ダストシュートがあって、屋上があって、そこには滑り台まであって、何より一等地に立っていて(福岡の中心部、天神の一部と言ってもいい)、両親にとって夢のような家だったらしい。
もちろん幼稚園、小学校と徐々に人間になっていく時期をここで過ごした僕にとっても思い出が多い。廊下やエレベーターや屋上で友達と遊んだ。当時はまだ10階建てなんて珍しかったから、ビル全体を使って友達とスパイごっこや隠れん坊をした。また屋上では野球をやったり、柵を乗り越えて遥か下方に蟻のように見える人を覗き込んだりした。子供は怖いもの知らずだ。いまなら足がすくんでとてもあんなところには立つこともできない。
とにかく物心がつく頃を、僕は福岡の中心部の大都会で過ごした。ずっと後になって大人になってから、例えば新宿の歌舞伎町などに懐かしさと、何とも言いがたい落ち着きを感じるのは、この頃の記憶があるからかもしれない。
あと小学校の2年生の頃に、電話がついた。初めて外の公衆電話から家にかける時に緊張して電話番号がわからなくなり、結局かけることができなかった。
小学校6年生の時に転居した。福岡市南区の屋形原というところだった。両親が新興住宅地に一戸建てを購入したのだ。2階建てのこの家で、僕は初めて土地付きの家に住み、初めて自分の部屋というものを持った。
すでに家は密集していたけど、大名と比べればあまりにも田舎だった。それまでは天神や西通りや親不孝通り(もちろん当時はそんな名前では呼ばれていなかった)で遊んでいた僕は、家はあるけどデパートも大きな建物もない住宅地の路地を自転車で走り回って探検していた。
近くの幼稚園で(たぶん)夕方5時になると、「緑の丘の青い屋根…」という音楽が流れて、それを聞くのが何となく好きだった。
小学校は越境でバス通学した後、地元の花畑中学に入学する。当然、知り合いは一人もいなかった。でも、子供の頃はいまのように外交的ではなかったはずなのに、僕はちっとも不安を感じていた覚えがない。まだ不安を知らなかったのかもしれない。とにかく普通に入学式へ行き、普通に友達を作ることができた。
うちの坂を下ったところに木村くんという同級生がいて、毎朝彼と一緒に自転車で通学した。後にも先にも、誰かと一緒に通学や通勤をしたのは彼だけだと思う。木村くんの家には犬がいて、お姉さんがいた。そして僕は毎朝我が家を出て、急な坂をブレーキをかけながら下り、そこに木村くんが待っていて…。そんな感じがちょっと嬉しかった。
でも、屋形原の家に住んだのは1年半くらいだった。父の転勤に伴い、三重県の津市に転居したのだ。中学2年生の夏休みに引越をしたのだが、やっぱりまだそれほど外交的ではなかったはずの僕は、夏休みのプール解放へ一人で出掛け、そこで友達を作り、あげくにその中学の選手として中体連の大会にまで出場してしまった。いまにして思うと、我ながら大したもんだと思う。
津の家は市の中心部にあった。でも、福岡と比べれば信じられないほど田舎だった。道路が広くて、人が少なくて、デパートも繁華街も何もなかった。それなのに、2学期に転入するとクラスメートから「九州は山奥だろう」みたいなことをしきりに言われ、僕はとても閉口した。
何より困ったのは言葉がわからなかったことだ。衝撃的だったのは国語の授業が聞き取れなかったこと。先生がおばあちゃんだったこともあるが、伊勢弁(大阪弁に近い)に馴染むまで、僕はたぶん無口だったと思う。
でも、この地で僕はとても大きな財産も得た。それは「ありがとう」という言葉を頻繁に口にするようになったのだ。引っ越してきてすぐに気づいたのが、お店でもどこでもここの人々は「ありがとう」ということだった。関西弁のイントネーションで「ありがとう」。お店で何かを買っても「毎度」ではなく、「ありがとう」。電話を切る時にも「ありがとう」。すぐに真似を始めて、素晴らしい習慣を僕は得た。
津の家は一戸建ての2階建てで、屋形原の家とほぼ同じ間取りだった。ここでも僕は自分の部屋をあてがわれたが、両親の部屋との境が襖一枚だったので、すでに14、15歳の僕はプライバシー保持に苦労した。
隣の家には神田くんという僕より一歳下の男の子がいて、彼と何度かキャッチボールをしたりもした。高校生になってからは家の前で毎晩素振りをした。薄暮の道路で、掌のマメを潰しながらの素振りはやればやるほど成果につながったように思う。だから毎晩欠かさなかった。
高校を卒業して、予期していた通り、受けた大学すべてに落ちた僕は、なぜか名古屋にある早稲田予備校の、それも寮に入ることになった。どういう経緯でそんなことになったのかはまったく覚えていない。
とにかく18歳の4月、僕は名古屋市名東区にある早稲田予備校一社寮に入居した。そして地下鉄東山線で名古屋駅前にある予備校に通った。
ここでは煙草を覚え、DCブランドのショップへ行き、夜中に寮を抜け出して吉野家の牛丼を買いに行ったりした。もちろん門限があるので、部屋のカーテンをはしご代わりにして、窓から抜け出すのだ。あと、近くのコンビニでアルバイトもした。僕にとって初めてのアルバイトだった。
寮の周囲は住宅地で何もなかった。隣の星が丘駅には動物園があったので何度か行った。あと星が丘にあった美容院「木のお家」で髪を切っていた。子供の頃は母親が切ってくれていたし、高校生になってからは野球部で坊主だから、外で散髪するようになったのはこの時からだ。なぜ床屋ではなく美容院だったのかはまったくわからないが、たぶんあの寮には割りと裕福な家庭の子弟で、お洒落な奴が多かったから、その影響だったのだろう。
あとは図書館に行って勉強したり、近くの公園でサッカーに熱中したりもした。わずか1年間だったが、一人っ子だった僕にとっては、ちょっとした社会を経験できた場だったと思う。寮には寮長もいれば、お兄さんやお姉さんもいた。
そういえば山田さんというきれいな栄養士さんがいて、彼女が僕の経済的な窮状を見兼ねて、パン屋に「画家を目指している子」と僕のことを話して、パンの耳をもらってきてくれたりした。すごくうまかった。た。ということは僕はお金がなかったということだ。だからバイトしたのかもしれない。
ちなみに山田さんは寮のお兄さんの渡辺さんと結婚した。いまだに年賀状のやり取りがある。
無事大学に入学した僕は19歳の春、上京した。東京での最初の家は中野区新井の4畳半のアパート。風呂なし、トイレ共同の、いわゆる下宿だった。合格発表を見て、合格を確認し、その足で東西線に乗って、一番安いチケットで中野駅に辿りつき(たしか90円だった)、そのまま駅前の不動産屋に入り、2万円以内という条件で探した部屋がここだった。
大家さんが創価学会の人で、聖教新聞を毎日僕にくれた。テレビ欄だけを僕は利用させてもらっていた。僕の部屋の壁の向こうがトイレだったので、誰かが用を足していると、その音が聞こえてきた。でも、特に嫌ではなかった。こんなもんだろうと思っていた。
とにかく狭いし、汚い下宿だったが、それでも大学のラグビー仲間がたびたび泊まりに来た。夜になると大家さんがカギをかけてしまうので電柱をよじのぼって窓から部屋に入らなければならないのだが、それでもよく誰かが泊まっていた。たぶん中野は便利な場所だったのだ。
近くにラグビー仲間で親友の田村(いまや彼もラグビーマガジンの編集長である)が住んでいて、ことあるごとに彼の家と僕の家を行き来していた。そういえば僕は電話がなかったので、僕宛の電話を取り次いでくれたりもした。彼の家に電話がかかると、人のいい田村は「いまから呼びに行きますから5分後にもう一度電話してください」とその電話を律儀に受けて、僕を呼びに来てくれるのだ。
余談だが、僕が電話を持っていないことを、大学の体育の授業の際に西大立目先生に怒られたこともあった。「いまどき電話くらい親に言ってつけてもらえ」と叱責されたのだ。居丈高な諫言に僕は相当憤慨して、意地でも親の金で電話をつけることはしないと心に決め、結局、この部屋では電話なしで過ごした。
電話がついたのは1年後くらい。バイト代を貯めて、8万円で権利を買った。電話って高いなあとしみじみ思った。
周囲の友達の生活ぶりを知るにつけ、いかにもこの下宿はひどいということに気づいた僕は、1年でこの部屋を出て、同じ中野区内の野方に移った。環七からすぐのアパートだった。
今度の部屋は昔の青春ドラマに出てきそうな鉄の階段がついた2階建てのアパート。並木荘といった。僕の部屋は2階の一番奥で、トレイもついていた。そればかりか玄関を入って、ちょっとした板の間に台所があって、その奥に6畳間があるという間取りだった。
そんなわけでベッドを買ったり、机を買ったり、僕は嬉々として部屋を整え、女の子を呼んで、ゲーム大会を開いたりした。
バイクを買ったのもこの野方だし、ジョギングをやりマラソンを走り始めたのもやはり野方だし、友達と村上春樹について語り合ったり、飲み屋で知り合った女の子を連れ帰ったり、当時はまだ僕の周囲では誰も持っていなかったワープロを購入し、小説らしきものを書いたのもこの部屋だった。
彼女もそうでない子も、風呂がないことに文句を言うこともなく、一緒に銭湯に行ったり、銭湯がもう閉まっていればコインシャワーに行ったりした。女の子がいかに素敵かを知ったのもこの部屋だった。
大学を卒業した後、極貧生活を過ごしたのもここだし、とにかくこの部屋にはよい思い出も酸っぱい思いでも山のようにある。いまの僕のスタートラインだったのだと思う。いまの僕の生活はあの野方の延長上に明らかにある。
並木荘に5年くら住んだ後、新宿区の中落合へ移った。引越費用はバイクの事故で受け取った保険金だった。24歳、すでに週刊宝石で仕事を始めていて、それなりの収入があったはずだが、引越できたのは事故のおかげだった。
西武線の中井駅から坂を登ったところにあるワンルームアパートだった。大家さんが上に住んでいて、僕の部屋は中二階にあった。そして、ついに風呂がついた。
風呂付の喜びはものすごく大きかった。なんせ時刻も曜日も気にせず風呂に入れる。と考えていま思うのだが、週刊誌の仕事は相当不規則だったのに、野方の風呂なしアパートにいた頃はどうしていたのだろう。銭湯がある時間に帰宅できなかった日も沢山あったはずなのに。
とにかく風呂が付いたことでジョギングをしてもすぐにシャワーを浴びられるし、快適な生活だった。近くにサンコンさんが住んでいて、僕が走っていると「頑張ってるね」とよく声をかけてくれたりもした。
そういえば隣の部屋の女の子からお手紙をもらったことがある。お手紙といってもラブレターではなく苦情レターだった。「壁が薄いことを考えろ!」と彼女はものすごく汚い言葉で怒っていた。
ここに住んで少し経った頃、近所で子猫を拾った。工務店の前で泣いていたのだ。とても小さくて、か弱く見えた。放っておいたら死んでしまいそうに見えた。つい拾い上げてうちに連れて帰って、牛乳をあげた。コンビニで猫カンを買ってきて食べさせた。ダンボール箱でトイレを作ってあげると、ちゃんとそこで用を足した。そして、そのままうちに居ついた。
しばらく経って一度行方不明になったことがある。当時付き合っていた彼女とうちの近所を相当探した。見つからなかった。2週間くらい経って諦めかけていた頃、夕方ドアの前で泣き声がした。それ以来、離れることなく一緒に暮らしている。そして、いまも僕の隣で寝ている。
東京へ来て4軒目の家は、中落合の家から徒歩15分くらい、哲学堂公園のそばにある2DKの部屋。2階だった。
この頃、僕の懐具合は一番豊かだった。何となくぶらっと散歩しているときに、引越しようと突然思い立ち、不動産屋に入り、すぐに決めたように記憶している。
西武線の新井薬師駅から徒歩5、6分。隣に住んでいる大家さんは、あのタンクタンクローの著者の息子さんだった。僕の部屋の下は「タンクロー倶楽部」という展示場になっていた。
居間には出窓があって、僕がうちの前まで来て窓を見上げると、マンちゃんが必ずそこから僕の帰りを待っていてくれた。
新井薬師は西武線の中ではとても栄えた駅で、駅前には飲み屋がたくさんあった。夜中まで仕事をして、夜中の2時ごろから僕はしょっちゅう飲みに出掛けていた。早い時間の時は「夕焼け」で、夜中以降は5時までやってる「孔雀王」で飲み、そこのお客さんやら女の子やらと「奴樽蔵」へ移動して8時ごろまで飲んだ。いつも通勤の人々とすれ違いながら家路についていた。
夜明け頃に玄関に続く階段を昇った。けだるい朝とか、うきうきした朝とか、やるせない朝とかがいっぱいあった。チャゲ&飛鳥の「プライド」を聞くと、あの階段を昇っていた時のことを必ず思い出す。
あと家の近くにスポーツクラブがあって、朝起きて寝ぼけたままそこのサウナに入り、さっぱりして一日を始め、夕方またトレーニングに行ったりしていた。とても便利で、快適で、しかも僕の生活にあった家と街だった。
その次の家がこの前まで住んでいた三軒茶屋ということになる。2LDKでメゾネットの部屋に、思いがけず5年半も住んだ。最初の半年は2人で暮らし、残りの5年は1人で住んだ。最初の半年はよく海外取材に出ていて、1人になってからの1年間は毎晩飲み屋で過ごした。その後、色々な人が食べたり、飲んだり、しゃべったり、泊まったりしにくる家になった。少し変わった間取りだったし、色々なものが古くて使いやすい家ではなかった。おまけに新井薬師にいた頃より飲み屋の単価が上がったし、家賃も高かったので、僕はすっかり金欠になった。
というわけで、家と土地について思いつくままに書いていたら、結局、そこに住んでいた頃のいろいろな思い出が次々に浮かんできてしまって、ちょっと切なくなってきた。そんなつもりではなかったので、ちょっと困惑している。
ただ振り返ってみて思うのは、やはり「普通」が随分上がってきていること、初めて風呂がついた時に嬉しくてユニットバスで紅茶を飲んだ。あの頃には喜びとか誇らしさに実感があった。
もちろん生活レベルは自分自身の力で上げてきた。それに過去は懐かしく麗しく思い出してしまいがちでもある。何よりいまこの新しい家で僕は新しい生活を始めようとしている。これまでがそうであったように、ここでも自分の居場所を作ることを楽しんで暮らしていきたいと思う。
指を折ってみれば、僕は生まれてから13軒の家で暮らしてきた。この茅ヶ崎が14軒目である。自治体でいえば、大分県中津市、福岡県福岡市(中央区・南区)、三重県津市、愛知県名古屋市、東京都中野区・新宿区・世田谷区、神奈川県茅ヶ崎市。
自分の意識ではもっと多いような気がしていた。ちょっと意外なくらいに少なかった。とはいえ、地元とか故郷をはっきりと口にできない寂しさはいつもどこにいてもある。でも、これまでもこうだったのだから、これから先もきっとこんな感じで生きていくのだろうと思う。