未来は僕らの手の中にある          05.4.20

 あれは新潟の少女監禁事件が世間を震撼させた頃だったから、もう5、6年前のことになるだろうか。ストーカー、ひきこもり、ナイフ所持といった10代の問題を取材した原稿の末尾を僕はこう結んだ。
 ……大人にとって、確かに現代の子供たちの世界は見えにくい。親でさえも我が子のことがわからないという。しかし、諦めなければそこに接点は必ず見つかるはずだ。なぜなら僕たち大人も、かつてはみんな子供だったのだから――。

 随分情緒的な結論ではあるが、「見えない」、「わからない」、「理解できない」の連呼の末に「怖い」とまで言い始めていた当時の世相に対して、僕は“想起”することを訴えたかった。時代と世代の絡み合う難解なパズルを解きほぐすことに頭を捻るよりも、記憶のページをめくり返す方が自然で本質的な作業だと感じたからだ。
 そして、まだ何者でもなく、過去さえ持たず、遠い未来への期待と不安を抱きつつ、胸躍らせたり苛立ったりしていたあの頃を思い出すことが、理解への第一歩だと考えた。僕たちはみんな、そんな子供として生まれ、大人になったのだ。そして次の世代と入れ替わっていくのだ、という輪廻の意識もどこかにあったかもしれない。

 つまり、一人の人間の生が終わっても、世界は(そしてサッカーも)そうした一人一人の生死のうねりに乗って脈々と続いていくという真理だ。
 例えば「2050年」。僕たちの半数はすでにオサラバしているに違いない。それでも僕たちは、僕たち自身はその場にいない2050年を胸に描きながら、2005年を生きている。その連なりを信じるからこそ「ワールドカップ優勝」という大きな夢を抱くことができる。

 言い換えれば、すべての僕たちは第一走者でもなければアンカーでもない、ということだ。
 サッカー的な表現をすれば、僕たちはかつての誰かが出してくれたパスを受け、次の誰かにパスをつなぐ一人の選手にすぎない、ということである。
 かつて子供だった僕たちが大人になったように、いまの子供たち(キッズ)もいつかは大人になる。そして大人になったキッズが次のキッズをまた育んでいく。そうした世代をまたいだ取り組み(うねり)が「DREAM」へと日本サッカーを運んでいくのである。

 幸いにして現在大人の「僕たち」には未来へ投資する力がある。前々会長の長沼健氏が「若い世代を海外遠征に行かせたかったけど、悲しいかな、無い袖は触れなかった。それをやらないと強くならないことはわかっていたけど……」と口惜しそうに述懐した時代ではもうない。
 キッズプログラムをはじめとした未来への投資――普及と育成は、だから「僕たち」の責務ということになる。

 付け加えるならば、義務教育の補助金が減少されるなど、国家に未来への投資を行なう余裕がなくなってきている(その意志さえなくしているようにも見える)いま、「サッカー」に寄せる期待は大きい。尋常ではなく大きい。
 遠慮することはない。大人とは自分だけでなく、周りや社会の面倒もみる者のことだ。垣根など気にせずにどんどんコミットすればいい。
 そしてタッチラインもスタジアムの屋根も突き抜け、未来を切り拓いてほしい。
 かつて子供であった「僕たち」として。
 未来は――そう、いつも僕らの手の中にある。


*本稿は「JFAニュース」に掲載されたものです。