生活のあり方について  〜「海からの贈り物」より        05.6.17

  いま読んでいる(といっても何冊か並行して読んでいるので遅々として進まないのですが)、「海からの贈り物」の一編です。
 著書はリンドバーグ夫人(大西洋横断飛行に成功したあのリンドバーグ大佐の夫人だそうです)。
 なんかすごくいいんですよね。それで写してみました。

注)僕の手元にある新潮文庫は昭和40年代に出たものなので(かどうかわかりませんが)邦訳がややわかりにい。それで僕なりに若干意訳してあります。

                   *           *

 浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのに、いい場所ではない。
 私は以前からの経験でそのことを知っているはずだった。温か過ぎるし、湿気があり過ぎて、本当に頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのには居心地が良過ぎる。
 それでも私は同じことを何度も繰り返してしまう。本や紙や、もうずっと前に書くはずだった手紙や削りたての鉛筆や、やらなければならないことのリストなどを、禿げちょろの藁の籠にいっぱい詰め込んで張り切って浜辺へ出掛けてしまう。
 そして本は読まれず、鉛筆は折れて、紙は雲ひとつない空と同じ状態のままになる。読みもしなければ書きもせず、ものを考えもしない。少なくとも、はじめのうちはそうである。

 はじめのうちは、自分の疲れた体がすべてで、航海に出て船のデッキチェアに腰を降ろしたときのように何もする気が起こらない。頭を働かせたり、予定通りに仕事をしようとするたびに、海岸の原始的な律動の中に押し戻される。
 寄せては砕ける波や、松林を吹き抜ける風や、鷺が砂丘の上をゆっくりと羽ばたきながら飛んでいくさまが、都会やスケジュール帳の気違いじみたざわめきを消して、私もまたその魔術にかかり、ただただそこに横になったままなのである。
 つまり、横になった私は海によって平らになった浜辺とひとつになり、浜辺と同じようにどこまでも拡がる“空っぽ”になり、今日の波によって昨日の痕跡すべてを洗い去るのである。

 2週間目のある朝、ようやく頭が目覚めて、働き始める。都会でのそれと同じではなく、浜辺の生活なりに、である。浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。
 頭に起きたこうした無意識の波は、宝物や見事に磨きあげられた小石や、あるいは海の底にある珍しい貝を、意識の白く滑らかな砂の上に打ち上げてくれるかもしれない。ほら貝、つめた貝、さらにはたこぶねさえも打ち上げてくれるかもしれない。

 しかし、それをこっちから探そうとしてはならないし、ましてそれ欲しさに砂を掘り返したりすることは許されない。海の底を網で漁るようなことをするのはここでは禁物で、そういうやり方で目的を達することはできない。
 海は、もの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、ここでは地面を掘り返して宝物を探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを意味する。
 忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。
 我々は海からの贈り物を待ちながら、浜辺のように空っぽになって、そこに横たわっていなければならない。