日本代表をテレビ観戦して                       05.10.13

 東欧遠征への同行取材をとりやめたので、ラトビア、ウクライナとの試合はテレビで見た。
 なるほど。ネット等で酷評されている通り、そこでは何とも奇妙なハイテンションの掛け合いが展開されていた。確かにあれでは実況とも解説とも言いがたい。「音声を消したくなる」という意見にも一理あるなとうなずいた。

 とはいえ、テレビのああした暴挙はサッカーに限ったことではない。そして、そうした所業はテレビに限らず、多くのメディアにおいても行なわれている。
 例えばサッカー以外のスポーツにおいても過剰テンションの撒き散らしは当たり前のように行なわれているし、それはスポーツのみならず、政治や経済が対象であっても同じだ。オリンピックの「ニッポンがんばれ」はその典型だし、一連の小泉劇場然り、北朝鮮報道然りである。

 そしてスポーツ新聞や週刊誌の例をあげるまでもなく、あらゆる媒体において程度の差こそあれ同じ手法は踏襲されている。メディアとはそもそも増幅装置という性格を持つものだから、良いことも悪いことも、感動も悲劇もやはり増幅してしまうのである(あるいは、増幅しようとしてしまうのである)。

 いやいや、そんな小難しい話を持ち出すまでもないかもしれない。需要と供給、と言ってしまえば一言で済んでしまうのかもしれない。
 要するに、あんな放送であっても(失礼!)見たい人がいるから、あんな放送が(重ね重ね失礼……)が続くのである。そこに視聴者のニーズがあるからこそ(高視聴率)、テレビはああした番組作り(仕掛け)に邁進するのだ。
 つまり「日本人」が望んでいる放送があれだということになるわけだ。

 無論、この場合の「日本人」はいわゆるマスである。広く浅くの日本人。だから、マスを対象とするメディアが作るサッカー番組はあんなものになる。つまり、あれこそが日本人向けのサッカー中継ということになるのだ……

 なんてことをラトビア戦の後考えていたら、ヨーロッパ予選の最終節、ダブリンでのアイルランド対スイスの放送が始まった。この試合の結果によって両チーム、そしてフランスとイスラエルの運命が決まる、まさに「絶対に負けられない」「決意の」一戦だ。
 にもかかわらず実況も解説も淡々とした語り口で、落ち着いた放送が続く。さすがマスではなくコアを対象とするCS!
 だけど……正直に言おう。ホントはもうちょっとハラハラドキドキさせてくれないかな、と今度は物足りなく思った。
 視聴者というのは身勝手なものである。



*本稿は携帯サイトに掲載されたものです。