サッカーメディア時評                   06.6.28

●日本代表の憂鬱
 この稿はドイツで書いている。つまり(締切の都合上)まだワールドカップは開催中。
 である以上、空間的にも時間的にも母国で繰り広げられたであろう(そして、すでに沈静化しつつあるであろう)狂想曲について語るのは不可能である。そのことを前置きしておく。

 それでも何も語れないわけではない。そう、いつでも、どこでも、誰でも「何も語れない」ことはないのである。それこそが極めて今日的なメディアと世論の表面敵対的な、それでいて実は蜜月関係の正体である。
 早い話がインターネットはこのデュッセルドルフの部屋をワンクリックで極東の島国に運ぶ。部屋から一歩も出ず、モニターに向かっている限り、ここは日本にもなるのである。

 覗き見る日本は憂鬱であった。いつものように集団思考停止装置が作動し、パニック、あるいはヒステリーに陥っているかのようだった。
 ブラジルに2点差以上。それが条件だった。しかも残りの2チームの他力まで含まれた条件だった。
 にもかかわらず「可能性はある」である。「魂を込めれば」である。「成せば成る」である。

 なぜ修羅場に追い込まれた瞬間、これまでに築き上げてきたものを一切合財放り投げてしまうのだろう。普段あれほどまでに嫌悪している精神主義にすがりつくのだろう。
 いまや日本人は相当にサッカーに詳しい。たぶんファンもメディアも世界でもトップレベルの知識と理論を持ち主である。間違いない。世界各国のリーグや選手についての情報を持ち、その戦術、プレースタイル、とにかく多くのことを知っている。

 だから――もしもサウジが、トーゴが、トリニダート・トバゴが、グループリーグ最終戦でブラジルに2点差以上の勝利で……というシチュエーションを「可能性がある」とは決して考えたりはしない。星取表を一瞥して「サウジは消えた」と×印をつけるのが関の山に違いない。
 賢明である。そんな程度の賢明さはいまや日本のサッカーファンなら誰でもが持っている。にもかかわらず「日本」が絡んだ瞬間にすべては覆る。

 いや、応援を否定するわけではない。愛国心を嗤うわけでもない。だが、しかし、である。「メディア」と称する者までが判断力を失うのはいかがなものか。それが確信犯的ビジネスセンスであったとすればなおさらだ。財布と社内的立場を握り締めて、同時に自らの首を絞めているとしか言いようがない。国民の思考停止を促す行為=メディアの集団自殺であることを自覚すべきである。
 おまけに(これがまた困ったことに)真の思考停止に陥るメディアもいる。「ドイツにおける日本」、つまり日本代表取材メディアの中にも、願望が客観を凌駕する者が数名いた。
 おかげで決勝トーナメント予想カードのF組1位にブラジル、2位にオーストラリアと書き込んだ僕は叱られてしまった。
「だって、まだ可能性はあるじゃないですか!」。金切り声だった。
 憂鬱を通り越して暗澹たる気分になった。

●「ジーコ」の行方は?
 すでに旧聞に属するのは承知で「6月の祝祭」を巡る出版界について少々。
 早い話が利益はそう大きくはない。3度目となり消費者がワールドカップにも馴れつつある昨今(「飽きつつ」でないことを願う)、そんなことは出版界はとうに学んでいる。
 学んだ、というより、悟ってしまったと言った方がいいかもしれない。<競合→共倒れ→『ナンバー』(文芸春秋)の一人勝ち>という固定観念もすでに営業担当者の間で定着した感あり。
 日韓大会のプレビュー号で「広告収入だけで1億5000万円を稼ぎ出した」という逸話(しかも30万部を売り切った)もすでに伝説として語られ始めている。湯浅健二風に言えば「爆発的フリーランニングも挑戦マインドも」発揮しにくい段階に突入している。

 もっとも前回も触れた通り、サッカーメディアの地平は広がりつつある。もしもそれをある種の成熟とみなすのであれば、成熟の先にはスノップがあり、その先にようやくカルチャーが生まれると僕は期待を込めて信じる。

 その意味で「サッカーワールドカップ犯罪事件史」(コアマガジン)は面白かった。<死、カネ、オンナ、暴力、残酷事件――ドイツW杯「醜聞」ガイド>とのサブタイトル通り、「銀河系下半身スキャンダル」、「人間バイアグラ」など惹かれる見出しが並ぶ一冊である。

 いかにも生真面目なファンから<レッドカード>を突きつけられそうだが、彼らが信奉する本場=ヨーロッパのメディアはもっとドギツイことをそろそろ知るべきである。スキャンダル、ガセネタ混交は当たり前。ここドイツのテレビでも試合が終われば、選手の股間をボールが直撃したシーンの繰り返しだったりする。ラテン諸国では高露出度の巨乳美女は欠かせない。

 要は送り手と読み手の共犯関係ができあがっているかどうかだろう(東スポが「ネッシーを発見」しても誰も目くじらを立てないような関係)。少なくとも「3−5−2」と数字を並べれば正統派として認められるメディアと国民よりも、彼らは享楽的、つまりサッカー的なのである。
 サッカーの本質が遊びであり、闘争である以上、不真面目さと拳を許容できるようになれば世界と伍していくことはできないのではないか。
 心身ともにタフでなければ、勝者にはなれないことを知るべきである。

 ……と書き綴ってきたところにビッグニュースが飛び込んできた。
「オシム新監督」、「中田引退」、「ミサイル発射」である。
 嗚呼、また現在があっという間に過去に流れ去っていく。すでに海底の沈殿物は波間に顔を出すほど堆積しているはずだ。せめてこの号が書店に並ぶ頃には「日本代表監督」を巡る議論だけでも活況を呈していることを。
 オシム新監督(であるらしい)ではない。ジーコ前監督の方である。
 よもやすでに忘却の彼方……なんてことはあるまいが。



*本稿は「フットボールライフJr」に掲載されたものです。