ドイツW杯惨敗の理由                   06.7.6

 そもそも勝てるはずなどなかった。
 個人か組織か、自由か規律か、なんてアンビバレンツな議論をしている時点で愚かだ。個人も組織も、自由も規律も全部必要である。
 当然である。優れた個人が組織的にプレーし、自由の集積の果てに規律を作り上げるのがチームである。
 ましてやこれはワールドカップなのだ。そんなことはすべての個人とチームが両立しているし、そんなことも両立できない選手やチームが出場するべきではないのだ。

 ジーコが悪い。川淵キャプテンの責任だ、という意見にもうなずけない。
 要するに責任転嫁である。ジーコが優れた指導者であったとは思わない。そのジーコを選んだ川淵キャプテンが正しかったとも思わない。
 では、そんなジーコ監督と川淵会長に誰か忠言したのか。できない? だとすれば、それは代表チームと同じではないか。つまり自己主張やコミュニケーションの不足は代表チームだけの問題ではなく、スタッフも協会も同じだったということである。

 終戦後の報道の中に面白いものがあった。フィジカルコーチが「7試合を戦う計算で体を準備した」と明言したというのだ。
 7試合? それって決勝、もしくは3位決定戦までいくつもりだったということですか?
 笑うしかない。里内フィジコはそんなことを本気で思っていたのだろうか。さすがにそんなことはないだろう。
 だとすれば、ジーコ監督の指示に従っただけ?
 つまり、そういうことである。スタッフの間にも意見をぶつけ合うなんてことはなかったのである。協会に関してもおして知るべしである。

 もっと言えば、やたらと選手のコミュニケーション不足を指摘していたマスコミはその内部で意見をぶつけ合うことができていたのか。編集長やデスクの指示に反論し、自己主張する記者がどれだけいるのか。さらに続ければ、読者やファンはそれぞれの会社や組織でそれができているのか?

 はっきり言うが、意見をぶつけ合い、自己主張をするのは何もサッカーの代表チームだけの話ではない。それができている国は一般社会でもそれをやっている。
 代表選手はまさしく国民の代表であり、代表チームはその国の鏡なのである。そんなことは誰でも知っているはずだ。

 要するに負けたのはジーコのせいでも、川淵三郎のせいでもなく、僕たち自身の実力である。日本と日本人が負けたのである。それを認めない限り、何も変わりはしない。自らを省みず、誰かに責任を転嫁している限り、同じことを繰り返すだけだ。そして、そのたびに安全な場所からクビのすげ替えを叫び続けるのだ。

 それにしても、たかがサッカーの敗戦を僕はどうしてこんなふうに国民性に帰結しているのだろうか。書いていて嫌になる。
「サッカー」のことをサッカーの言葉と文脈で解決できる国に僕たちは早くならないといけない。終戦直後のヒステリックなブログや頭でっかちな報道を眺めていて、しみじみそう思った。
 個性とか規律とかコミュニケーションを尺度に語るのではなく、サッカーの本質であるゴールの快感と勝負に対する闘争心を、まっすぐに見つめるところからスタートし直さなければ永遠にサッカーの国に日本はなれない。
 トルシエだろうが、ジーコだろうが、やっているのも応援しているのも日本人なのだ。



*本稿は「フットボールライフJr」に掲載されたものです。