加茂さんから聞いた話               08,2,20

 先日、スポーツ雑誌の取材で加茂さんにお会いした。
 加茂さん――言わずと知れた日本サッカー界きっての名将だった、あの加茂周さんである。

 もしかすると若い(20代)世代の中には、<加茂さん=名将>という印象がない人もいるかもしれないが、70年代に日本人として初の「プロ監督」となり、日産自動車サッカー部を強豪に育て上げ、80年代には三冠(リーグ、カップ、天皇杯)を2度も達成。
 Jリーグ草創期にもフリューゲルス監督として天皇杯を制している。

 ちなみに80年代には「加茂周を日本代表監督に」とサポーター(当時はそういう呼称ではなかったけど)が運動を起こしたこともあった。
 残念ながら、いわゆる御三家(古河・三菱・日立)の出身ではなかったし、当時は新進の指導者だったから実現はしなかったが、少なくともJリーグが立ち上がる時点までは日本サッカー界を代表する監督だった。

 またピッチの中での指導者という面だけでなく、ようやく選手の(事実上の)プロ化が始まったばかりだった時代に「監督がサラリーマンではダメだ」と主張し、いまに続く道筋をつけた人でもある。

 そんな加茂さんが代表監督に就任したのは1994年末。オフト時代が「ドーハの悲劇」で終わり、その後を引き継いだファルカンが半年で解任となった後任として、ようやくチャンスが巡ってきたのだった。
 途中、「腐ったミカン事件」などいくつかの起伏はあったものの、加茂さんの日本代表はフランスワールドカップ最終予選まで3年近く続いた。
 そしてドーハ組からの世代交代(名波のボランチへのコンバートとか、相馬、名良橋らの抜擢とか)、有名な「ゾーンプレス」などを推し進めた。

 御存知の通り、加茂さんはあの最終予選の途中、中央アジアで解任になる。カザフスタンで引き分けた夜である。
 そして、当時コーチだった(しかも監督経験ゼロだった)岡田新監督が実現し……以降のことは、第二期岡田ジャパン誕生に際して多くのメディアがリフレインしているから改めて書くことはないだろう。

 加茂さんの後任を託された岡ちゃんが、とりあえず暫定監督として指揮を執ったウズベキスタン戦終了後、成田空港からまっすぐに先に帰国していた加茂さんの元へ馳せ参じたのも有名な話。
「僕は加茂さんに呼ばれて代表のコーチになったのであって、協会から頼まれたわけではなかった。だから加茂さんに今後のことを相談にいくのは当然」
 岡ちゃんのそんなセリフは、日本人の心情にすごくマッチするし、そんな義理堅い人だからこそ、岡ちゃんはあの後多くの日本人に共感をもって受け入れられたのだと思う。

 ただ実はずっと前から不思議だったことが僕にはあった。
 加茂から岡田への移行については色んな人が詳しく書いているというのに、そもそも加茂がなぜ岡田を側近に置いたのか、については誰も書いていない。
 つまり、なぜ岡ちゃんが代表コーチになったのか――という謎である。
 関学→ヤンマー→日産と歩んできた加茂さんと、早稲田→古河の岡ちゃんでは接点があったようにも見えない。
 代表監督にとってコーチは、片腕であり、唯一の味方といってもいい存在だから、見ず知らずの人を選ぶとは思えないし……とずっと不思議に思っていのだ。

 その謎が、今回加茂さんに話を聞いて解決した。
 加茂さんによれば――「あいつのことは中学生の頃から知ってるんや。うちの弟がやっていたサッカーショップに毎日のように来てたから。それで人柄も、サッカーへの情熱も弟から聞いて知ってて、その後日本リーグでプレーしている姿もずっと見てて。あいつはいいコーチになるだろうなとずっと思っとったんや」。

 まだサッカーがメジャーではなかった時代。サッカーショップなんてもの自体が珍しく、まして関西では加茂さんのサッカーショップはちょっとした“基地”で、その基地にやってくるサッカー少年の中でも図抜けて“サッカーバカ”だったのが岡田少年で……ということである。

 いわゆる「コネ」と言えなくてもない。でも、聞いていてちっとも嫌な気分にならない裏話だった。
 そして、そんなサッカーバカ(年季が違う!)だからこそ……と考えて、僕は妙に納得したり、ちょっと嬉しくなったりしたのだった。



*この原稿は「携帯サイト」に掲載されたものです。