2008年のゴール裏                      08.12.9

 アントラーズのホームページに「サポーターズミーティング」の議事録がアップされている。レイソル戦での“旗竿事件”を受けてのクラブとサポーターとの話し合いである。
 発言者の言い分にはそれぞれ思うところがあったが、それはさておくとして、何より不可解に感じたのは、クラブ側は性善説で事態を収拾しようとし、サポーター側は性悪説(というのは言い過ぎかもしれないけど)で問題の解決を望んでいることだった。

 具体的に言えば、クラブ側は「ルールで規制するのではなく、みなさんの良識で……」と期待していて、一方のサポーターたちは「問題を起こさないためにはルールの強化を(それどころか厳罰を望む声もあった)」と主張しているのだ。

 普通、規制や罰則の強化は為政者(政府とか警察とか)の側が目論むことで、民衆はそれに反対するものである。なぜなら規則や懲罰は「管理」を促すものであり、「自由」を制限するものだからだ。
 にもかかわらずアントラーズの場合はまったくその逆。イベントの主催者であり、会場の責任者であるクラブの側が「自由」を守ろうとしているのに、観客の側が「管理」を求めているのである。
 僕には非常に不可解な話し合いに読めた。

 だから、もしかすると僕が感じているよりもずっと、「ゴール裏」はヒドいことになっているのかもしれない……そんなふうに想像せざるをえなかった。
 具体的にどうヒドいのかはわからない。でも、自分たちで収拾できないほどにヒドいことになっているのだと思うしかなかった。だって、そうでなければ自分たちの自由を捨ててまで管理者の介入を求めたりはしないはずだから。
「みなさんのモラルに」とクラブサイドの発言者は繰り返し言っていたけど、そんなものに期待できないほどゴール裏は荒んでいるということだ。

 ……ということだ。
 ……ということだ。

 本当にそうなのだろうか。
 Jリーグは「サポーター」という新たな文化を創った。サポーターが、それまでの「ファン」とは違って新しかったのは、単なる「受け身なお客さん」ではなく、自発的かつ能動的に行動する観客だったからだ。
 そして、そんなサポーターが集う「ゴール裏」は、自分たちで作り上げ、自分たちでルールを決め、自分たちで運営している場所、いわばそこには「自治の精神」があるように感じられたのだ。
 だからこそ、「サポーター」は若き市民権を得たし、「ゴール裏」は自由で活気に満ちているように捉えられた。

 でも、もしかすると、そんなものは幻想だったのかもしれない。
 鹿島のみならず、このところ常識の範囲を逸脱した“事件”がゴール裏で続いている。まるで自分たちの場所を、自ら汚し、貶めるような行為をする者が次々と出てくる。
 愚か者や乱暴者はどこの社会にもいるから、そのこと自体に大きく驚きはしない。サッカー場だけが例外であるはずはない。

 むしろ気になるのは、そんな輩を止めたり、諌めたりする<フツウの人たちの不在>である。
 必ず(残念ながら)現れる愚か者や乱暴者を、抑止する大多数がちゃんといることで、社会の安全や自由は担保されている。どんな世界でもそうだ。
 ところが、いまやゴール裏にそんな抑止力は期待できず、それどころかサポーターたちは諦めなのか、放棄なのか、安全に対する責任を主催者に押し付けようと……。
 アントラーズの議事録を読みながらそんなことを思って、少し悲しかった。

 例えば一緒に観戦に行った友人が、常識外れの行動をとろうとしている。それを諌めることはできないのか。
 例えば集団心理に駆られた一団が、興奮のあまりに乱暴な振る舞いをしようとしている。それを制止できるリーダーはいないのか。
 例えばピッチ近くまで駆け寄って、長い棒を相手選手に向かって振りかざす愚か者がいる。それを止める大人は周囲にいなかったのか。

 安全に対する(法的・社会的な)責任は、もちろん主催者にある。
 しかし、ゴール裏を自分たちの場所だと思うのなら(これからも先も自分たちの場所として誇りたいなら)、自分たちで守るべきである。少なくとも守ろうとし続けるべきである。
 そうでなければ、いつかそこは、自分たちの場所ではなくなってしまうだろう。



*この原稿は「携帯サイト」に掲載されたものです。