COLUMN


 過去への扉をノックする自分についての考察。(2000.2.11)

 2月に入ってからというもの、旧友たちとの“再会”が相次いでいる。
 小学校時代の友人にいたっては、実に23年ぶり。ファミレスで顔を合わせるまでは「会ってもわからないのでは…」という懸念もあったのだけど、そんなことは取り越し苦労。あっという間に緊張は緩み、話が弾み、楽しい時間を過ごした。もちろん互いに寄る年波には勝てず、記憶力の衰えはいかんともしがたいのだが、それでも心和む時だったことに変わりはない。
 それにしても彼女以外にも、直接会って話した友人が2人、電話、メールも含めれば、10人ほどの旧友たちと久々に連絡をとり、近況を伝えあったのだから相当なものだ。「もうじき死ぬんじゃないの」なんて冗談も飛び出すほどの、本当に相当な出来事である。

 そんなこんなを高校時代の友人(彼だって15年以上は会ってない)に話したところ、彼の口から出てきたのは「温故知新してるわけね」。
 古きを訪ねて新しきを知る。なるほど、改めて考えてみれば、僕自身の潜在意識にそんな目論見があったのかもしれない。別に「新しきを知ろう」なんてつもりはなかったけれど、僕自身がきっかけを作ったことは確かだし。それが波及してねずみ算的に“再会”が増えてきたのも事実。
 リスタートと位置づけた年の始めに、自分の原点と再会したいという気持ちが、無意識のうちに働いたのかなぁ…
 なんて考えていたら、カーステレオから気になるフレーズが聞こえてきた。

 人はどうして あてもなく 過去への扉を叩いて生きるの?
 ちなみにサザンです(TSUNAMIもいい歌ですね)。国民的奇跡的長寿定番大歌手の彼らが歌うくらいだから、たぶんこういう時期は誰にでもあるのだろう。年齢とか、事件とか、気分とか。そして僕にもそんな時期が巡ってきたというわけだ。
 一体どうして? うーん、よくわからん。まあ、だから「あてもなく」なんだろうけど、改めて好奇心を旺盛にして、自分自身の内面を探ってみると…(それも変な作業ですけど)。
 決して後ろ向きな気分でも、暗い気持ちでもない。メランコリックな気分でさえない。ベクトルの向きは明らかに、次とか明日とか未来とか挑戦とかに向かっている、つもり。
 だとすれば、なぜ?

 思いついたのは、こういうこと。
 僕は、次とか明日とか…のためのエネルギーを充電しているのではないだろうか。
 新たな自分を構築すること、それも意識的に、という随分不自然なスローガンを掲げて2000年に突入した僕には、過去との再会が必要だったのだ。そこで得られる手触りのある事実の積み重ねが、これからの僕にとってエネルギーとなることを本能的に悟ったのだと思う、きっと。
 だから久々に過去への扉の前に立って、ちょっとばかしの勇気を出して、ノックしてみたのだ(かなり逆説的な動機づけだけど)。

 そんなこんなでここ数日の不可解な現象も、僕なりに解明できたというわけで、この際腹いっぱい充電させてもらうことにしようと思う。
 人によっては「いまさら何…」と迷惑をかけることになるかもしれないが、そもそも人と人が付き合うということは、ハッピーなことと同じくらい、迷惑をかけたり、かけられたりすることなわけで、そのあたりを許容できず、オミットしながら生きようとするあたりに、昨今の陰惨な事件の根っこがあるような気もする今日この頃だからこそ、ね。
 せめて僕の周囲では、せいぜい迷惑をかけ、かけられ、嫌な思いや面倒事が増えていき、それでも人付き合いをやめない、そんなタフな(というか当たり前の)人間関係を築いていきたいと思うからである。

 それにしても、何かを考える時に“書きながら”考えるというのは、やはり有効なものですね。このコラムを読んでいる人(がいるとして)には迷惑な話だろうが、もともとこのホームページは、僕自身の色んなこと(仕事とか日常とか)の整理が第一の目的だったので、その辺は大目に見てください。ビジネスじゃないし(もっともビジネスでも最近この手の「ああでもないこうでもない」原稿が増えてきているのも事実ですが)。

 余談ながら、KNETのKはもちろん私の頭文字ですが、NETは「正味」と「ネットワーク」の略です。つまり「等身大」であること、そして「一人では何にもできない」ので、みなさんよろしくね、といった意味合いです。蛇足ながら、いい機会だったので。