1月1日(木)
2004年初日。でも2003年からの継続した一日になってしまった。でもでも何と言っても「ハジメがカンジン」である。というわけで徹夜をモノともせず、家を出発する。
朝6時すぎ、ラチエン通りに出るとそこは人の波だった。たくさんの人が一斉に海へ、海へとぞろぞろぞろぞろ。東海岸沿いの海辺の街では新年一発目の日の出を海で眺めることはどうやら当たり前のことなのである。そんなわけで老いも若きも男も女もぞろぞろの合間を、自転車ですり抜けながら僕も海へと向かう。
ビーチに辿りつくとそこも人、人、人。しかも一様に海の方を向いている。これにはマイッタ。初日の出を海上で眺める――それが僕の2004年最初の自分との約束だったのだ。しかし、このギャラリーの前で豪快に盛大にコケまくるのは……。
もちろんみんなは初日の出を待っているのであって、海上に浮いている僕を見ているわけではない。それにしても、である。おまけに(これは予想外だったけど)サーファーの数は極めて少なく、5、6人だけ。海岸から沖を眺める人、数千人に対して海上にはわずか5、6人。結局、新年早々、勇気が足りない自分を責めながらも、波待ちの態勢で僕はただただ早く今年最初の太陽が顔出し、海岸の人波が家路についてくれるのを待つことに。海の上でじっとしていると寒いので、首まで海に浸かりながら(外は極寒でも海の中は温泉のように暖かいのだ)。
初日の出見物(といっても、雲に遮られてぱっとしなかったけど)が終わり、海辺の町のみなさんが去った後、今年初コケ。1時間近く波に揉まれて、すっかりぐったり、でもすっきり、で元旦の朝の約束を何とか果たす。来年は堂々と板の上で日の出を見られるようになっていたいと願いながら帰宅。
10時ごろ車で都内へ。途中、戸塚のドンキホーテに寄って、今年2つ目のお約束、デブまっしぐらに歯止めをかける、のツールとして体重計を購入。第三京浜を降りた後は、まっすぐ三宿の吉野家へ。が、吉野家は閉まっていた。BSEの影響だと思われる。非常に切ない。仕方なく、ハス向かいの松屋で牛丼を食べたら、さらに切なくなった。
天皇杯決勝、磐田vsC大阪@国立。昨年厳しい視線を送り続けた大久保の凄まじいポテンシャルに改めて感嘆。敗戦後、芝に突っ伏して泣いていた彼の心中をあれこれ想像する。ちょっとやさしい気持ちになった。
帰路は辻堂の湘南モールに寄って、明日会う予定の甥っ子が大好きだという飛行機のオモチャをトイザラスで探す。が、電車や車のオモチャはたくさんあるが、飛行機はほとんどなかった。結局、リモコンで翼が上下動し、ランプが光るちょっと立派な飛行機を購入。1歳半の子供には無理があるかもしれないと思いながら。それにしても子供のオモチャって意外と安いんだなぁ。もう何十年もオモチャなんて買ったことなかったから、びっくりした。
1月2日(金)
早朝に起きて原稿書き。終了後、テレビをチェックして慌てて家を飛び出して、箱根駅伝を応援&観戦するため134号線へ。
昨日同様、うちの前のラチエン通りも、134号線も人、人、人。昨日から「人、人、人」と書いているが、この「人、人、人」はまったく嫌な「人、人、人」ではない。それどころか昨日の朝も今日も、ここの「人」はむしろイイ感じなのだ。週末の繁華街とか、木、金の飲み屋街みたいな浮かれた空気でもないし、あくせくした感じもまったくない。毎年恒例の土着の行事(風物詩)に、いつものように当たり前に出掛けていくというリビングな雰囲気が、何だかとてもイイのである。
実を言えば、そんな空気に僕は何だか感動してしまった。これまでなら溜息をつくような人込みに感動して、恥ずかしい話、涙まで溢れてしまった。トップランナーからビリが通過するまで134号沿いで配られた旗を振って応援しながら、一体何だって俺は泣いているのだろう? と自分でも不可解だったけど、ずっと涙が止まらなかった。たぶんこの地に辿りつくまでの色々なことが無意識のレベルで僕の琴線を刺激し、涙腺に影響したんだろうけど、何がどうであれ、それはすっきりとした涙だったから、ここに引っ越してきてよかったのだとと改めて思ったし、ここのことがますます好きになった。
帰宅後、ささっと準備をして茅ヶ崎駅へ。東京か新横浜に一旦出て、そこから新幹線で名古屋へ向かうつもりだったのだけど、みどりの窓口で「ちょうどいい『ひかり』があるから小田原から新幹線の方が…」と言われたので、快速アクティで茅ヶ崎→小田原、そして新幹線で小田原→名古屋と行ったら、なんと1時間半で名古屋に到着してしまった。びっくり。茅ヶ崎と名古屋ってすぐ近くなんじゃん!と嬉しくなる。中学、高校を過ごした津までだって、これならあっという間である。
今日は名古屋の従姉妹宅へ泊めてもらうことになっているので、名古屋駅から地下鉄で本郷へ。地下鉄東山線が懐かしい。19歳の頃、1年間名古屋の名東区に住んでいて、いつも東山線に乗っていたのだ。当時利用していた一社駅を通過する時、ちょっと降りてみようかなと思ったけど、義従兄弟が駅に迎えに来てくれているはずなので我慢する。
本郷駅でティムと久々に再会。ティムはウエールズ人だが、ものすごくナイスガイで僕の大好きな男。初めて会った時からとても気の会う友人になり、あらゆる点で尊敬している義従兄弟でもある。もっとも彼と再会してすぐに僕はちょっとショックも受けた。あまりにも英語が出てこないのだ。もともとカタコトなのに、カタコトさえもしゃべれないのだ。そんなこんなで悲しくなったり、不勉強を反省したりしながら、ティムの車で従姉妹宅へ。
従姉妹の息子、レオ(玲生)と初めて会う。そして、あまりのかわいさに絶句する。僕は親ではないからバカではないのだが、客観的に見て相当かわいいのだ。そんなわけで、はじめの10分くらい人見知りしていた彼が僕に馴染んで、すり寄って来てくれたり、笑いかけてくれたりするたびに、何と言えばいいのだろう…そう、心がときめいた。あまり経験したことがない感情だったので、斬新でハッピーだった。プレゼントの飛行機で一緒に遊んだり、素子が出してくれたジュースを一緒に飲んだりしながら、たぶん僕の方が夢中だったと思われる。
ちなみにレオはまだ1歳だから言葉はまだほとんど話せないんだけど、時々日本語と英語をミックスして口走る。車のことは「カー」だが、飛行機のことは「ヒコウキ」なのである。生来のバイリンガルは情緒的に大変なのでは…と僕は心配したけど、ティムと素子は大丈夫と笑っていた。いずれにしても、あと1年もすればもっとコミュニケートできるようになるわけで、早く大きくなれ、そして早くもっと一緒に遊ぼうぜ、と無邪気に笑ったり、時々物憂げな瞳で見つめてきたりする表情の豊かな1歳の彼に告げておく。
素子の心のこもった日本食(「どうせオセチとか食べてないんでしょ」とわざわざ数の子を用意していてくれた)を食べ、ビールを飲み、ワインを飲み、すっかりいい気分になった僕は、珍しく語りながら舟を漕ぎ、テーブルに頭をぶつけて笑われ、僕も笑い、これまたあまり経験したことのない楽しい夜を過ごした。
1月3日(土)
未明に一度目が覚める。「ここはどこ?」状態。意識を取り戻してから階下へ降りたら、イングランドにいる頃からこの家の家族だったオードリー(猫)がソファに一匹で丸まっていたので、ちょっとかわいそうになってしばらく抱っこして一緒に丸まってあげる。レオが生まれたことと、この家では2階はペット不可(1階だけOK)ということもあって、彼女はやや身の置き所がなくなっているみたいなので。
再び寝て、9時ごろ起床。朝食の後、本郷駅まで送ってもらって別れる。ティムとはいつかサーフィンを一緒にやろう、素子とはまた遊びに来ることを約束。
名古屋から近鉄特急で津へ。津駅には親友のタバタとツゲちゃんが迎えに来てくれていた。車の窓から眺める津の街は(来るたびに思うのだけど)どんどん寂れているみたいだった。
昼すぎ津都ホテル到着。「津高58年度卒業生同窓会」は大盛況。80人、90人はいたのではないか。といっても誰が誰だかわからない。もしかして…と顔を伺い、目が合って、でも自信がなくて顔を伏せ、どちらかが勇気を出して「もしかして…」てな感じで、少しづつ「おーっ」とか「あーっ」とか歓声を上げながら20年の時間を縮めていく。いきなり判別できたのは、しょっちゅう会っている野球部のコバヤシとか、3年前のクラス会で会ったイケヤマさんとかイケヤとか、時々メールのやりとりもしているキンモリさんくらいものだったのではないか。野球部の仲間のミヤタとかナカムラとかでさえ、「あれ?」と一瞬の間を置いて認識する感じだった。なんせ20年ぶりである。顔カタチや頭髪ばかりではなく、醸し出す雰囲気みたいなものがすっかり変わっているのだ。
それでも面白いもので、ちょっと縮まってくると、芋づる式に色々なことや人を思い出して、「1年生の時、一緒のクラスだった○○とちゃう?」「担任は○○?」てな具合にどんどん「知り合いかも…」から「友達」に戻って、それにつれてなぜかキャラも元キャラに戻って、1時間くらい経つ頃には会場のあちこちで輪ができ、輪に呼び込み、輪が大きくなり、懐かしい話とか近況とかに、まさしく花が咲くようになった。
びっくりしたというか、すごいなぁと思ったのは、みんな人としての輪郭がはっきりしていたこと。とっとと結婚して家庭に入り、主婦として母として過ごしてきた人も、社会人として仕事をしてきた人も、性格こそおとなしかったり目立ちたがり屋だったりそれぞれなんだけど、でもみんなちゃんと人間になっているのだ。20年間を確かに生きてきた自信みたいなものが、誰の表情にも浮かんでいるように見えて、僕は何だか嬉しかった。どんな毎日であれ、どんな道程であれ、日々の生活を重ねていくということはすごいことだなと思った。
1次会がお開きになった後、近くの居酒屋で2次会をやり、別れがたく残った人たちで3次会をやり、さらに僕と柘植ちゃんは今日泊めてもらう田端宅へ移動して、卒業アルバムを引っ張り出し、そこに小林も合流して深夜まで話した。当時の写真を見て、きれいになったとか、いい女になったとか、あいつは昔からああいう奴だったとか、この子も見てみたかったとか言いたい放題の感想を口走り、途中からは家庭運営についてとか、夫婦関係についてとか、そんな既婚者にとっては目前の話題についてもそれぞれに語ったりした。そんなふうにして終わった今日一日すべてが、ありえないほどに楽しかった。昔を懐かしむ、というだけではなく、現実逃避的な意味ではまったくなく、絶対的に楽しい一日だったのだ。そして、僕にとってはものすごく幸せな誕生日でもあった。というわけで39歳になった。
1月4日(日)
9時ごろ起床。タバタ宅をツゲちゃんと3人で出発。ちなみにタバタは昨年だったか、一昨年だったかにこの家を購入したばかり。家族4人で暮らすに十分な間取りと、新築らしいちょっとしたハイテク設備が導入された一軒家である。昨晩到着するなり家中をチェックした僕とツゲちゃんは「ええ家やなぁ。これならいつでも泊まりに来れるなぁ」とニヤニヤし、タバタは「アホ!ローンもあるし大変なんや」と口をとがらせていた。ちなみにちなみに前回もそうだったのだけど、僕を泊めるために彼は正月に奥さんの実家へ帰るのをやめ、妻子と離れ一人で残っていてくれたのである。僕は独身だが、そういうことが結構面倒なことであることは何となくわかるので、実はとても感謝している。
朝食を食べた後、僕が津に帰った時の恒例となっている、修嗣の墓参りに3人で行く。彼が亡くなってからもう十数年。その第一報をもたらしてくれたのがタバタで、事故のあった鬼怒川で待っていたのがツゲちゃんだった。いつもこのお墓にくると思うのだけど、十数年の間に僕も随分遠くまで流れてきたなあと今日も思った。くだらない話、彼が死んだ日、僕は当時付き合っていた彼女と池袋の映画館で『稲村ジェーン』を見ていて、当時はまだ携帯電話なんてなかったのに、映画の後たまたま家の留守電を聞き、彼の事故を知ったのだった。あの頃、僕は野方の風呂なしアパートに住んでいて、まだ週刊誌の記者をやっていて、もちろんJリーグだってまだ開幕してなくて、お金も社会的なポジションもなくて毎日が精神的にも不安だったし、現実的にも不安定で、それでも、いまにして思えば、心に何か特別な余裕があった頃だった。
もちろん僕はいつも、いまも精神的には(必要以上に)余裕があるつもりだけど、あの頃の余裕といまの余裕は質的に随分違うような気がする。それはたぶんあの頃の余裕が、時間的な余裕、つまり自分がまだ20歳そこそこであるからこその余裕だったのに対して、いまの余裕は色々な経験をしてきたからこその余裕、つまり今日までの過去に根ざした余裕だからなのだろう。
無論、どちらがいいというものではないけど、そんなことを考えると、ほんのちょっとだけ隙間風が吹き込んでくるような気もしてしまうのである。時が経ったのだな、と実感しないではいられないのである。
そうそう、修嗣の墓では「小学校の頃、同級生だった」という地元の女の人に偶然会った。彼女は「修嗣くんは子供の時から頭のいい子で、地元にずっとおる私らとは違って、東京へ出て行く人やと思ってました。大学にも進んだって聞いて、やっぱりなぁと、これからもっと偉くなる人やったのになぁ…」と控えめな物腰で話してくれた。高校を卒業して嫁ぎ、「地元にずっと」いる彼女と、僕が東京で出会う大学も出ているオシャレで都会的な人たちと、どちらが偉いのかはわからないけど、能面のような顔をして電車に乗っている人たちよりも、お正月に実家のお墓を掃除し、幼馴染のお墓を訪れていた僕たちに声を掛けてくれる彼女の方が、僕は好きだし、たぶん僕自身もそういう人になりたいと願っているのだと思う。
あとお墓の入り口に掲げてあった「何が不足。生まれた時は裸やに」という言葉に、3人で思わず立ち止まって、顔を見合わせたりもした。
墓参りの後、何だか知らないけど、タバタとツゲちゃんが盛り上がって、カーナビに和菓子屋さんの名前を入力し、松阪へ向かい始める。僕が高校時代に好きだった女の子(もちろんいまはもう女の子ではないのだけど)が嫁いだ和菓子屋さんにこれから行こう、というのである。カーナビにこういう使い方があるとは想像したこともなかった。マイッタ。正直、マイッタ。最近めったにないくらい浮き足立ってしまった。おまけにタバタがこういう時に限って妙に気が利く奴で、カーステでハウンドドッグを鳴らし始め、結局、3人で「スティル」とか「Jのバラード」とか懐かしい唄を熱唱しながら津から松阪へと走ったのだった。結論から言えば、和菓子屋さんとはいってもお店があるわけではなく、まさか工場に入っていくわけにも行かず、事無きを得た(?)のだが、それでも「会ってやろうじゃないか」と覚悟を決めてからの数十分間はハイになり、動悸も激しく、久々に血が沸き上がる時間だった。
松阪から再び津に戻り、頼んでもないのに津の街のあちこちを巡回してくれ、夕方、津駅で別れる。別れ際に珍しくわざわざ二人と握手をしたのは、言葉にしようもない、そして言葉にする必要もない感謝の気持ちを伝えるためだった。
津から名古屋、名古屋から往路と同様、小田原停車の「ひかり」に乗り、東海道線を乗り継いで茅ヶ崎へ帰る。津駅からちょうど2時間で帰宅。やっぱり近い、と嬉しかった。
1月5日(月)
行動履歴として始めたこのI'm hereを2002年8月に日記調に変えたのには実は目論見があって、当時仕事の量を減らしていたので、毎日この程度の文章でもいいから書き続けることで「書くことから離れないように」しておきたかったのと、軽い調子のコラムを書くトレーニングをしてみたい、と考えてのことだったのだけど、今年はどうしようかな…とちょっと迷っている。
というのも2月から某サイトで日記(ウイークリーペースだと思うけど)を連載することになっていて、となるとこのI'm hereと、そのサイトと、本当の日記とトリプルダイアリーになってしまうからだ。本当の日記はまさしくプライベートで、ここは「公」と「私」の中間で、サイトで連載するのは当然「公」的な立ち位置になるわけで、書き分けは可能なんだけど、それにしてもなぁ…と。3つも日記を書くと、何が何だかわからなくなってしまうというか、事実は記録できても真実を書き残しておくことが難しくなるような気がするし。
1月6日(火)
昨日の続き。そもそも日記とは何ぞや。インターネットの普及がもたらした現象の一つに、日記をつける人が急増したというのもあると思うんだけど、ネットで公開している以上、つまり人目に触れることを前提としている以上、それはよそゆきの日記なわけで、いかにぶっちゃけて書いているように見えても、本当のホントに知られたくないことは決して書かないわけで、だとすれば本来の日記(「お母さん、私の机の中、いじったでしょう! もしかして日記読んだわけ? 最低!」「それは悪かったと思うけど…。見られて困るようなことをあなたがしてるからでしょ! ○○くんとあんなこと…。もう会うのは許しませんからねっ!」みたいなことが起きるような日記)と、ネット日記とは似て非なるものなわけで、というか、本来の日記というものが他者(自分以外のすべての人)には決して明かせない個人の真情を綴るものであるとすれば、似て非なるどころか、まったく異質なものと言うべきで。
いわばネット日記はパーソナルなものではなく、むしろ作品と呼ぶべきもので、それもドキュメントというよりはむしろフィクション寄りの作品で、だとすればこのネット日記というのはもしかすると「いま的なブンガク」の一ジャンルとなりつつのかもしれない、なんてことも言えるかもしれない。思うに、あることないこと書き綴って、たくさんの読者を獲得している面白いネット日記サイトもきっとあるはずで。
ちなみにここはノンフィクション(フィクションではない、の意)です。
1月7日(水)
一昨日、昨日の続き。ネット日記によって書き手、及び読み手が受ける影響、あるいは勘違いについて。元来マスターベーションである日記を、人の目を意識しながらカクというのはかなり屈折した行為で、しかし、それをネットという現実感のない場でカクうちに、書き手は「すっかりその気で症候群」に陥ると思われる。自己陶酔的だったり、自己演出的だったりする表現や言い回しが多発しがちなのもたぶんそのため。
誰かに見られながらマスターベーションしていることを「意識・無意識」両面で意識しているうちに、無意識に(「意識」だらけで意味わかりにくいけど…)、本来よりちょっと(器が)大きなふりをしたり、(気が)長いふりをしたり、(気持ちに)余裕があるふりをしがちなのである。
だからネット日記の中の「その人」は概ね、器が大きく鷹揚で、そればかりか前向きでキレモノだったりするのである。逆に偽悪的な人も登場するが、それも書き手がそういう自分を演出したいからであって、男の子がワルに憧れるようなものだと思われる。
一方で読み手は……については明日に繰り越し。
1月8日(木)
ここ数日の続き。一方、読み手が陥りがちなのが「知ってるぞ症候群」。知人や友人や著名人が公開しているネット日記を読む時、多くの人はその人の現実を見知ったような気分になってしまうのである。もちろん立派な勘違いである。
例えば、ここに関して言えば、「僕」が「原稿書きの一日」と一行で済ませているからといって、原稿だけ書いて一日が終わっているわけでは当然ない。そればかりか、原稿なんて書いてなくて、あげくの果てに、美女とベッドの中で一日過ごしていたりする可能性だってあるのである(実際はそんなことないけど。念のため)。
もちろん誰かのネット日記を読むというのは、盗む読みではないにしても、やはり誰にでもある「覗き見願望」を満たす行為でもあり、しかも公認覗き見だから知らんぷりする必要もないわけで、だから次にその人と会った時に「先週も毎晩飲んでたね。毎日朝帰りで大丈夫?(ニヤリ)」なんてつい言いたくなってしまうのである。この(ニヤリ)が知り合いのネット日記を読む醍醐味であり、「次に会う時」のためにブックマークをつけて毎日クリックしたりしてしまうのである。
うーん、ここまで合ってるかなあ。てゆーかコレ、何のために書いてるんだっけなあ。
1月9日(金)
ここ数日の続き。で、何なんだ?の結論。月曜からずっと考えてきて、やっぱりネット日記というものは相当面白いツールだと僕は思うのである。理性的にも、本能的にも。
何と言っても書き手はどのようにでも自分の一日を創作できる。好みのイメージの男に演出できるし、アリバイだって作れるのである(「ねぇ、先週土曜日何してたの? 電話してもつながらなかったし、浮気でもしてたんでしょう?」「そんなことないよ。えっと…ほらっ、友達の○○と会って飲んでたんだよ」なんてことも可能)。
読み手だって、友達や有名人がどんな奴なのかを推測する貴重な手がかりを得ることができるわけで、ネット日記を通して推理ゲームを試みるくらいの遊び心があれば、これは相当楽しめるのである。そして書き手と読み手がバーチャルなネット上で相手の手の内を推理し合いながら、リアルな世界で実際に顔を合わせた時に会話で攻防を繰り広げる…。これは相当シュールで高度なコミュニケーションゲームではないだろうか!(って、「そこまで考えるほどのものか?」と問われれば、僕には一言も返す言葉がないですけど)
ま、とにかく、このI'm hereはこれからも当分、こんな感じで続けていくことにしよう、とそんなわけで決定。
1月10日(土)
昼前、起床。しかし、目が覚めた瞬間から、ものすご〜く不愉快な気分。鏡で顔を見たら、やっぱりとってもシケたマイナーな顔をしている。とにかくテンションが低い。実を言えば、今日はいわゆる「仕事始め(取材始め)」の日だった。今年は「陽気でバカで能天気でいつも笑顔の、とにかくポジティブな男キャラで行こう!」と目論んでいたのに初日からこれではイカン。
というわけでシャワーを浴び、コーヒーを飲みながらレゲエのCDを流して、顔と心の筋肉を和ませようと試みる。出発後はカーステレオでサザン。今度は発声練習も兼ねて熱唱する。そんなわけで大神のベルマーレクラブハウスに到着する頃には随分まともな顔と声と気分になっていた。それにしても、めったにないくらいグレイな目覚めだったなあ。
取材は小島伸幸。かつて強豪チームだった頃のベルマーレの守護神で、フランスワールドカップメンバーで、現在もなおザスパ草津で現役を続けるGKである。ベルマーレ在籍中から旧知の仲であり、しかも本人もサービス精神旺盛なので取材はスムーズに進んだ。が、あんまりスムーズにスッ〜と進みすぎて、僕的にはちょっと手応えがない。実を言えば、この仕事(ベルマーレ十周年記念本)については、こんなんでいいんだろうか、もっと何とかすべきなのではないか、いやいや、俺が出しゃ張るべきものではない…てな感じで、ずっと葛藤しているのだ。年末時点で、「僕はライターに専念するので、コンセプトや構成についてはみなさんでよろしく」とジョホールバルでの中田英寿のコメントみたいなことを言い放って、自分なりには線を引いたつもりだったのだけど、まだ吹っ切れていないらしい。
取材後、雑談などして夕方、帰宅。茅ヶ崎に引っ越したおかげで、ベルマーレはすぐ近くなのである。ホームタウンへの引越は偶然なのだが、この仕事を進める上でこれは超ラッキーだった。
帰宅後、年末から「明日回し」にし続けている企画書書きを「今日こそは」と始めたところで携帯が鳴る、出たらなんと智ちゃんことキム・チヨンさん(チヨンの「チ」が「智」なので)だった。しかも、彼女の第一声は「いまレインボーブリッジの上」。
困るのである。日本に来る時は早めに連絡すること、と言い渡していたにもかかわらず、「いまレインボーブリッジ」では困るのである。それでも「友あり遠方より来る」モードに入ってしまった僕は、パソコンを閉じ、「ホテルにチェックインしてからまた電話する」という彼女からの電話を待ちながら、テレビの前で待機状態に入る。
にもかかわらず、そのまま電話はかかってこなかったのである。本当に困るんである。結局、夜中になって再び仕事を始めて、朝就寝。明日会ったら、絶対一言ガツンと言ってやる、と思いながら。
1月11日(日)
午後というより夕方起床。寝ている間に智ちゃんと思われる「公衆電話」からの着信が5分おきくらいで大量に残っている。昨晩の仕返しだぜ!と思いながらも、やっぱり電話を手元に置いて待機。今日はすぐに連絡がとれて、今晩会うことに。
ちなみに「昨日なんで電話しなかったんだよ!」と諫言するのはすっかり失念してしまった。電話を切ってから思い出したけど、ま、いいかと済ませてしまう。「友あり…」に僕は本当に弱い。
9時、新宿ワシントンホテル。フロントからハウスフォンで電話をするが、なんと智ちゃんは不在であった。とりあえず彼女の友達に「フロントで待ってるから」と久方ぶりに脳ミソの奥の方からハングルを引っ張り出して告げる。今度こそ頭に来た!絶対ビシッと言ってやる!と誓うが、10分後、僕のことを心配してフロントに彼女の友達のキム・ジョンヒョンちゃんが現れた瞬間、やっぱりすっかり忘れてしまったのだった。かわいいのだ。おまけに控え目で、楚々としているのだ。僕の心は「彼女、古き良き時代の女かもしれない@キムタク」なのだった。
そんなわけで「帰ってこない智ちゃんのことなんて放っておいて二人で飲みながら待ってよーぜ」(もちろんハングルでそんなことを言えるはずもなく、「彼女を一緒に待ちましょう。アルコールは? じゃ、そこのバーへ行きましょう」てな感じで)と、ジョンヒョンちゃんとホテルのバーへ。彼女はまったく日本語NGだったし、僕も彼女も英語がさほどしゃべれないし、で僕のハングル頼りという危なっかしい会話ではあったけど、結構盛り上がって2時間ほどを二人で過ごしたのだった。
ちなみにジョンヒョンちゃんはLGグループのネット会社に勤めていて、お父さんは校長先生だということ。ただでさえ上下関係や男女関係が日本よりまともな韓国人で、しかも教育者の家庭であれば、品がいいのも当然なのであった。主に盛り上がった話題は、海とかビーチとかダイビングとか南の島旅行とか。話題的にも、本当に結構いい感じだったのである。
11時。バー閉店。さて、どうしたものか…という時になって智ちゃんが戻ってくる。知り合いのところで食事をし日本酒を飲んだら、寝てしまったらしい。まったく困ったもんだ。さすがに智ちゃんは平謝りではあったが、僕はそんなことなどまったく気にも留めずに、ジョンヒョンちゃんとプリクラ撮影に勤しんでいた。
それから3人で歌舞伎町のチアーズ@区役所通りで飲み直し。通訳兼コーディネーターの智ちゃんが加わったことで、当然のことながら会話はとても弾んだ。とはいえ、智ちゃんは日頃のストレスや不満吐き出しモードに入ってしまい、ほとんどを日本語で僕としゃべり続けていた。僕はといえば、ジョンヒョンちゃんが退屈しているのではないだろうか、と彼女のことが気になり、それでもジョンヒョンちゃんはまったく嫌な素振りもせず、それどころか話の流れを察して適度に相槌を打ったり、笑ったりと、人付き合いのセンスの良さをみせていた。ヒューマンスキルの高い人が(男女問わず)僕は好きである。
と言いつつ、僕は智ちゃんのことも大好きである。だからこそ、ソウルと東京という遠距離友情ながらも、仕事で初めて会った2002年3月以来ずっとチングでいるのである。ちなみに智ちゃんは一応、ではなくて、ちゃんと人妻で子供も一人いて、おまけにインテリで仕事もできる。初対面以来、ソウルに行くたび僕は必ず彼女と会っているから、この2年間で10回近く会っていることになる(会社員でも家族持ちでもない僕にとって「2年で10回」以上会っている人はそんなにいない)。
でも今日の彼女はやはりいつもとは少し違っていた。実は僕は前から気づいていたのだけど、「いつだったかの夏にカワバタさんと会った時は、旦那と離婚しようかと思ってた頃だった。いまはもう落ち着いたけど」なんてことを少し酔って明かしたりするのだ。表情とかちょっとした言葉の端々で僕はそんなことを何となく感じていたのだけど、でもソウルで会っている時には彼女はそんなことをまったく口にしなかったわけで、友達の新しい一面を見る思いだった。そして、それはそれで楽しかった。ずっと友達で居続けるためには、そういうことを楽しめるかどうかがカギなのだ。
そんなこんなで茅ヶ崎帰宅は5時すぎだった。
1月12日(月)
「えべっさん」の総本山、西宮神社の恒例行事「福男選び」で一等賞になった大阪市消防局の消防士さんが、「一番福」を返上したとのこと。ビデオ判定によって同僚が他の参加者を妨害していたことが明らかになったため。
これはGOOD NEWSなのだろうか、それとも由々しき出来事なのだろうか、あるいは、どうでもいいヒマネタなのだろうか…と考えてみて、どれにも当てはまることを確認し、最終的にはそんなことをわざわざ3パターン考えてる自分にげんなりしたりする。
1月13日(火)
一昨日に続いて「友ありソウルより来る」の日。今晩は智ちゃん縁の人々、プレジデントとダンチューのダブル鈴木さんに声をかけ、その周辺の人々も含めて賑々しく飲む。パークハイアットの最上階あたりの(夜景がスーパーきれいだった)何とかという高級(と思われる)クラブ(黒人ジャズマンが生演奏してた。ちとうるさかった)で飲み、語り、さらに元プレジデントの樺島さんの手引きで新宿2丁目のオカマバーで飲み、語り、3時ごろ散会。
「飲み、語り」と言いつつ、実をいえば僕は車だったので一人ほとんどノンアルコールの夜であった。こんなことは初めてだった。でも、全然、まったく。少しも辛くなかった。これなら「これからもいつだって我慢できるさ」と自分に言い聞かせながら帰宅した。
1月14日(水)
小島伸幸@藤沢クリスタルホテル。先日のベルマーレでの取材+αについて。
取材後、田中くんが茅ヶ崎まで来てくれて、うちの近所で一緒に飲む。茅ヶ崎でこんなふうに飲むのは初めてだな。ちなみに今日は田中くんに説教される。ネタは僕の過剰なフランクさについて。半分納得、でもさ……という感じだったので、一通り聞いて得心した上で、一応、というか、意地を張って反論もしておく。
1月15日(木)
古前田充@長津田。久しぶりにコマさんのノラリクラリ調を耳にして、懐かしくて懐かしくて。でも、何だか少し元気がなさそうに見えた。情に厚い人だということは知っていたけれど、取材中に涙をぽろぽろ流されるシーンもあって、しかも僕にはそれがただの追憶の涙ではないように思えて仕方がなかった。いつまでも元気で明るく、悠々と大らかなコマさんでいてほしいと切に願いながらお話させていただいた。
そうそう、今日の取材は広報の遠藤さちえちゃんの送迎付きだった。自宅まで迎えに来てくれて、自宅まで送ってくれたのである。これがもう本当に信じられないくらいに楽チンなのだった。クセになりそうで怖いくらいに。もちろん僕の場合、クセになりようがないんだけど。でも偉い人で自宅前に社用車が待機している人っているじゃないですか。あれヤバイね。マジ、ヤバイよ。真っ当な生活感なくしてしまうよ。
1月16日(金)
上田栄治@JFAハウス。現日本女子代表監督の上田氏は、ベルマーレがもっとも厳しかった99年シーズンに指揮官を務めていた方。そのあたりを中心に話を伺う。ちなみに昨日の古前田さんに続いて、本日の取材ではさちえちゃんが涙をぽろぽろと。10年間――色んな人の色んな思いが詰まっているのだなぁ、責任重大だなぁ、と身につまされてしまった。
月夜野@歌舞伎町。本日、清美ママの最終日。僕ごときがいいのだろうか、もっと縁のお客さんがたくさんいるだろうに、と遠慮しながらも開店から閉店まで滞在。ちなみに(予想していた通り)こちらでは湿っぽさは露ほどもなかった。さすがツワモノである。
閉店後、今日も僕が泊まっていくと勘違いしたママに「はい、これ」とカギを差し出されて恐縮というか困惑する。いくらなんでも今日はママより後に店を出るわけにはいかんでしょう。いくらあっけらかんとしていたってファイナルナイトなのだから。本人にその気はないのかもしれないけど、僕に言わせれば、彼女はこの店を出て嫁に行くのである。ドアを出る時に振り返って、ほんのちょっとでもしんみりして、それから扉を締めて、自分の手でカギをかけてほしいのである、センチメンタルな僕としては。
そんなわけで丁重にお断りして、月夜野前の路上でママたちをお見送り。それから麻央ちゃんを呼び出して時間潰しに付き合っていただき、始発で帰宅。
1月17日(土)
阪神大震災から9年。第一報に接したのは、徹夜明けで早朝ニュースを見ている時だった。文字テロップだったと思う。その後、少し寝た僕はテレビをつけて、画面に映し出されたヘリからの映像に自失してしまったのだった。立ち昇る黒煙の映像は衝撃さえ感じないほどに衝撃的だった。絶句し、茫然とし、少し経ってあの下に人がいるのだと気づいて初めて、リアリティが沸いてきたのだった。地球とか自然とかのあまりに凶暴な破壊力に、思考停止してしまっていたのだ。営々と築き上げてきた日常(一日一日の努力とかサボりとかの積み重ね)なんて、本当に無力で無意味だと無意識のうちに悟ってしまったように思う。
それから2ヵ月後には、同じように文字テロップで地下鉄での「事故」を知り、同じように昼前に起きてから、それがサリンという物質によるものだということを知った。あの年は、阪神大震災とサリンで、それまでの文脈が通用しなくなった、(たぶん)現在につながる歪みが目に見る形で露呈した最初の年だったと思う。
個人史を重ね合わせれば、大地震の2週間前に僕は30歳になり、「もう30なのに、こんなことでいいのだろうか?」と大きな「?」を抱え、当時付き合っていた彼女とも突発的に別れ、本当に自分がやりたいことは何なのか、本当の本当に自分はどんな人になりたいのか…と自分の心の奥の奥にある井戸の底の底まで降りて行き、常識とか流行とか世俗的な光がまったく差し込まない真っ暗な井戸の底で、答えを見出そうとしていた。絶対的に一人にならないと、絶対的な答えは見つからないと信じていた。
誰とも会わず、誰とも話さなかったから、精神的に相当先鋭化していて、そのくせ世間と関わりを絶っていたから、ものすごく無防備で、そんな時にあの二つの事件に接してしまったので、井戸の底から上がれなくなりそうになった。人としても社会人としても破綻一歩前でぎりぎり人間&社会復帰したのだけど、おかげであの時刷り込まれた(というよりも相当深いところに刻み込まれた)虚無感はいまも消えず、どこか奥の方にくっきりと生々しく残っているように感じることがいまも時々ある。
1月18日(日)
ベルマーレ新入団発表@平塚競技場。今季は33人と過去にない大人数で、なおかつレンタルなしの完全移籍選手ばかりという陣容。アマラオ、浮気のベテラン選手の加入は待望していたもの。
新入団発表の後、産業能率大学との業務提携の調印式も行なわれた。ビミョウな感じの会見だったけど、ま、悪いことであるはずはないし、手垢のついていない新しい手法でのスポンサー獲得でもあるし、何より大学とプロチームの提携は「日本初」ということ。チャレンジしたり、トライしたりすることに対しては理屈抜きで応援する、というのが僕の基本姿勢。それが人であっても組織であっても。
会見後、平塚駅前に移動して、ボランティアのみなさんと少し飲み。帰宅後、そこでの響きを思い出しながらイヤーブックの原稿書き。
1月19日(月)
先週突風で倒れたサッカーゴールの下敷きになり児童が事故死した静岡県清水市の中学校の校長先生が、昨日亡くなられた。首をつっての自殺だった。事故のニュースに接したとき、どうしてよりによって清水の中学校なのだろう、と気になっていたのだけど。
清水では一昨年のワールドカップのキャンプ地誘致を巡っても市の職員の方が自ら命を絶っている。サッカーの町、清水だからこそ、なのかどうかはわからない。でも、そうなのだとしたらどうなのだ。殉死として救われるのか、それとも悲劇的な最後と同情できるのか。死を前にして、生きている僕は何もできない。救われも、同情も、悲嘆することも、怒ることも。
それにしても、ふてぶてしいほどに厚顔だったり、無神経だったりする人がいる一方で、センシティブで責任感の強い人もいる。そんなサバンナのようなこの世に存在し続けるのは、ただそれだけで容易なことではないとしみじみ思う。赤ん坊の泣き声は、生への喜びではなく、この世に生まれ出る恐怖の悲鳴なのだ、という話を思い出した。
1月20日(火)
ビデオ録画しておいた舞台「つかこうへ作・ストリッパー物語」を見る。いい。すごくいい。特に石原良純演じるヒモの一人語りの場面は滑稽で切なくて。びんびん来た。
1月21日(水)
野口幸司@二子玉川。現在テレビ解説で活躍中の彼はベルマーレ黄金期のゴールゲッター。95年鹿島アントラーズ戦で記録した1試合5ゴールは、いまもJ記録。僕が気に入っているテレビでの語り口そのままに2時間近く思い出話などする。ちなみに野口には引退してから人間が随分丸くなった人、という印象がある。現役中はもうちょっととっつきにくかったんだよなぁ。
取材を終えて喫茶店を出ようとしたら、偶然、北澤家のみなさまとばったり。北澤は丁寧に僕のことを奥さんに紹介してくれ、奥さんは旦那さん同様感じがよくて、子供たちもなかなか溌剌としていた。いい家庭だということがよくわかる。何となく想像はしてたけど。
二子玉川園から神保町へ。移動は久々の田園都市線。小学館でスピリッツのグラビアページの打ち合わせをし、その後、今度は飯田橋へ移動して、サッカー批評の半田さんと打ち合わせ。最後に、神楽坂の「きくずし」にて夕食&軽く飲み。なんか今日は一日バタバタだったんだけど、最後のきくずし(和食屋さん)がすごくおいしくて、女将さんたちの割烹着もとても板についていて、気忙しいテンポになりかけていたリズムが落ち着いた感じ。助かった。こういう忙しい時こそ、バタバタしたくないもんな。
1月22日(木)
深夜、ものすご〜く久しぶりに花奈ちゃんからTEL。といっても彼女からの電話はいつもこんな時間だし、いつも忘れた頃にかかってくる。でもって話の内容も、ここのところ毎回そうであるように意味不明だった。以前は近くに住んでいたからそれでも付き合ってこれたけど、こう遠くなってしまうとそうもいかんよなあ。そんなわけで、もしかしたらシリアスな口調になってしまったかもしれない。精神的にセンシティブな部分がある人だから、本当はもっと真綿で包んであげなきゃいけないのだけど。
そういえば、彼女に引っ越したこと伝えたっけな。たぶん言ってないような。でも、わざわざ伝えない方が彼女の安定のためにはいいかもなぁ、などなど想う。
1月23日(金)
ベルマーレ黄金時代の左サイドバック、というよりかつてのJのアイドル、そして日本代表の「10番」もつけた男、岩本輝雄@金沢八景。
顔はちょっと渋くなってきたけど、中身と笑顔は相変わらずのテルだった。昔から思っていたのだけど、あんなふうに人懐こく笑える男はそんなにいないのではないだろうか。そして彼の境遇を考えるとき、彼がどうしてあんな笑顔を身につけることができたのか、不思議でしょうがないような、ものすごくわかるような、微妙な気持ちになるのである。ちなみにテル節もいまだ健在だった。
夕方、横浜に移動してストライカーの小池くんと打ち合わせ。ワールドカップ予選の開始に伴い、再びストライカー誌でスタートする連載について。ちなみに今度の連載は小池くんの発案で小説仕立てになる予定。ぶっちゃけ、どんなふうになるかはいま現在、僕にもまったく手がかりなしだけど。
途中から田中くんも合流して飲みに。本当は二人は故郷の静岡に今晩帰る予定だったのだが、結局そのまま深夜まで飲んでしまった。でもって、僕も帰れなくなってしまった。そんなわけで、田中くん宅に泊まる。これまでの逆パターン、そして初パターン。田中くんの部屋は……。予想外の、というか想像を絶する状態だった。それでもすっかり大人になった僕はすぐに寝てしまったのだった。30前くらいまでの僕だったら、絶対寝れなかったな、潔癖症だったから。
1月24日(土)
昼過ぎ、静岡へ向かう小池号に相乗りして、自宅まで送ってもらう。帰宅後、PCに向かうが、どうにもこうにもうまくない。やらなければならないことが多過ぎて集中できないのだ。それも相手先も内容も色合いも違う原稿だから、始末が悪い。まずいなぁ。時間だけがどんどん減っていくなぁ。困ったなぁ。
1月25日(日)
テレビの前にPCを持ち込んで、大阪国際女子マラソンを見ながら、一応、仕事してるフリ。こうでもしないとテレビを見ることを免罪できないので。
女子マラソンは坂本がV。やったね、たぶん、大丈夫…という空気の流れが面白かった。それにしても、ただでさえ毎回物議を醸す女子マラソンの選手選考。特に今回は走っていない高橋尚子とも戦わなければならないわけで。発散系種目じゃないだけに、ホント、大変だと思う。
深夜、仕事を諦めて、日本映画チャンネルでATG作品「青春の殺人者」を見ていたら無性に飲みたくなって、珍しく自宅でバーボンの水割り。飲みたい気分にさせたのは若き原田美枝子の刹那的な愛くるしさと、反逆者たる水谷豊の鮮烈さ。ちなみに原田美枝子はいまもお気に入り女優。年齢を重ねてますます、かわいらしさと安心感を兼ね備えたいい女になっているわけで。僕はもう随分長い間、石橋凌が羨ましくてしょうがありません。
1月26日(月)
「自分の学歴を調査しないとわからないんですか?」。学歴詐称疑惑の古賀議員に対して、囲み取材で記者が投げかけたキツイ一言。グサリという感じだった。ああいう質問をするにはセンスがいるわけで、ジャーナリストとしてなかなかかっこよかった。残念ながら囲みだったので、どこの誰だかわからなかったけど。サッカー界ではめったに聞けない質問であった。
それはさておき、この手のこと(学歴)についてまで、「アカウンタビリティ(説明責任)」なんて大袈裟な言葉を使う必要ないと思うんですけど>ニュース番組。もっと「普通」とか「当たり前」のレベルを上げようぜ。
1月27日(火)
重松良典@丸ビル。一般的には昭和50年の広島カープ「赤ヘル旋風」時の球団代表として有名な重松氏は、平成9年、ベルマーレ「経営縮小」時のクラブ社長でもある。というわけで主に当時の話を伺う。付け加えれば、重松氏は昭和40年の日本リーグ設立にも、平成5年のJリーグ設立にも深く関わり、裏事情にも詳しいこの世界の陰の重鎮でもある。いつか裏話を開陳してもらえると大変面白い本が書けると思うのだが。
昨晩ほぼ完徹だったので、とっとと寝ればいいのに、結局なんやかんやをしているうちに夜が深けていってしまう。いかんなぁ、本当にいかん。
1月28日(水)
5時すぎ。夜明け前に家を出て、茅ヶ崎→小田原→名古屋。結局、またしてもほぼ完徹になってしまった。
午前、伊藤裕二@名古屋。ベルマーレがJ2に陥落した年に移籍加入し、現役引退を平塚で迎えたGKに当時の話などを聞く。相変わらず好感度と信頼感の高い、しかも二枚目な彼だった。
ちなみに取材場所は名古屋駅から地下鉄東山線で20分ほどの星が丘。実は僕はこの星が丘の隣の駅である一社に1年間住んでいたことがあって、このあたりは思い出の地なのだった。しかも、高校を卒業した後の1年間(予備校在学中)だったので、人生において初めて、をこの地でいくつも経験しているのである。そんなわけで取材後、寝てないというのに元気に星が丘から一社まで一駅分歩いてしまった。初めて親元から離れて暮らした寮の建物や初めてアルバイトしたコンビニはもうなくなっていたけど、初めて行った美容院も、初めて食べた牛丼屋も健在だった。特に牛丼屋は、20年前僕はこの店で初めて吉野家の牛丼と出会ったのだ、と発売停止が近づくいま妙な感傷に襲われたりもした。それにしても一社、懐かしかった。
午後、大阪へ移動して田坂和昭@セレッソ大阪。ベルマーレ黄金時代のボランチはすでに引退し、最後に所属したセレッソのユースチームのコーチを務めている。実を言えば、彼がプロ入りして最初に受けた取材のインタビュアーは(たぶん)僕である。95年1月、沖縄宜野湾でのキャンプ中にラグナガーデンホテルの部屋でした取材だ。そして、それは僕にとってもエポックな(仕事としてだけでなく、人間としても)取材だった。僕はどうしても彼とコンプレックスについての話がしたくて、そのためにまず自分のコンプレックスを曝け出したのだった。そこまでヒューマンな取材が必要な仕事ではなかったけど、僕はどうしても聞いておきたかったのだ。だからすごく葛藤したし、きっと声も震えていたのではないかと思う。取材後に、当時広報の栗原さんが「いやあ、なんというか、いい話が聞けました」としみじみ僕に言ったのを覚えている。
とはいえ今日の取材はもうメロメロだった。睡眠不足で意識が混沌としてしまって。新大阪で合流したカメラマンの福山さんが超美人だったから何とかテンションをキープできたものの、そうじゃなかったらかなりヤバい状態だった。そういえば編集の伊部さんも寝てないと言っていたから、彼女がいなかったら男二人どうなっていたかわからない。やっぱり美は力だな。毒になることもあるけど。
1月29日(木)
今日は甲府。昨晩、深夜に茅ヶ崎に戻ってきて、仕事の後始末と準備をして未明に寝たら、さすがに午後までぐっすり寝入ってしまって、夕方の新宿出発に遅れそうになってしまった。本当に危なかった。
甲府では塚田雄二・Uスポーツクラブ代表に取材。塚田氏はついこないだ元旦までセレッソ大阪の監督だった人。甲府出身で韮崎高校を出て、甲府クラブでプレーして地元で教員をやって、その後、自宅のぶどう畑を潰してグランドを作り、そこでサッカークラブを設立し、その後、ヴァンフォーレ甲府の監督になった真性「甲府のサッカーマン」である。その末にセレッソ大阪のヘッドコーチに招かれ、ついには監督になり天皇杯決勝までチームを導いてしまった人である。経歴を並べただけでわかる通り、相当面白そうな人なのである。もちろん話も相当面白かったのだけど、予備知識が不足していた僕は突っ込みどころがわからず、相当×2苦労した。
夜は石和温泉に宿泊。せっかくの温泉だというのに、一昨日突然依頼された原稿の締切で、結局ほとんど寝ずに仕事。しかも半田編集長が寝ている横で。「悲しいとき〜! 悲しいとき〜温泉まで来て原稿書いてるとき〜!」と「いつもここから」風のメロウな気分だった。
1月30日(金)
朝、ちょっと観光して帰るという半田さんを羨ましく思いながら、石和温泉駅から「あずさ」号で八王子、そこから相模線で茅ヶ崎へ直帰。相模線に乗るのは初めて。都会にもあるんですね、ボタン押さないとドアが開閉しない電車。随分昔にどこかで経験済みではあったけど、何だかウキウキしてしまって何度も乗り降りしてみたりした。
帰宅後、昨晩8割方書いておいたサッカーダイジェストの原稿を仕上げて送信。いやあ、毎日が綱渡りだ。
夜、本日ベルマーレでハンドブックの選手写真を撮影していた末石さんが仕事を終えた帰りに我が家にやってくる。おまけに広報の遠藤さちえちゃんもついてきた。彼女は本当に元気だ。いかに若いとはいえ、僕以上に寝てないし、僕以上にやることがあるというのに、わざわざメシ食うために茅ヶ崎までやって来るのだから。感心を通り越して、呆れてしまうほどである。
そんなわけで3人でうちの近所のココスで晩飯。締切から解放された直後の、こういうメシは実はかなり嬉しい。ここでワンクッション置くかどうかで、その後の心持ちが随分変わるのである。さちえちゃんが先に帰った(というか仕事に戻った)後、末石さんと二人、テーブルとドリンクバーを何往復かしながら雑談。
で、そろそろ帰ろうと思ったら、すでに会計が済まされていた。先に帰ったさちえちゃんが済ませて行ったらしい。もしかして、さちえちゃんは今日お世話になった末石さんに御馳走するために来たのか。そして、俺もそれにご相伴させてもらったのか。だとすれば、あの能天気な佇まいは演技だったのか。うーん…。呆れるどころか、感服すべきだよなぁ。まいるよなぁ、みんなそれぞれにツワモノで。
1月31日(土)
Tweetyさんという方からメールを頂く。このサイトを見てくださっているとのこと。こういうメールは本当に嬉しい。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、このまま生きていく勇気が増す気がして。「こういう」がどういうのかは、上手に書けないので(それに僕だけの喜びなので)割愛。
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