10月1日(金)
 昼過ぎ起床。元の生活に戻ってしまった。海を見に行ったら、小川さんと会ったのでパシフィックデリでランチして、色々しゃべる。嬉しいことも面倒臭いこともあるのだろうけど、やっぱり奥さんと子供がいるのは、つまり家族がいるのはいいなぁ、と彼の話を聞きながら思っていた。
 女優の金久美子(キム・クミジャ)さんが亡くなったとのこと。怨念とか執念とか目に見えない魂の存在を醸し出すことのできる凛々しい美しい俳優だった。訃報で新宿梁山泊の出身であることを知る。ああ、舞台女優だったんだ、と納得する。合掌。
 夜中原稿書いて、朝6時ごろ寝る。

 10月2日(土)
 合併から始まり、1リーグ、ストライキ、新規参入と流れてきた「プロ野球」騒動を巡る報道がここへ来てすっかり「ライブドアvs楽天」に傾斜している。そういう話じゃなかったんじゃないか。少なくとも2つのIT企業のどっちが…なんてことは「プロ野球」の矛盾とは話の筋がまるで違うのではなかろうか、と新聞やテレビを見ながら首を捻ったり憤ったりする。
 でも、もしかしたらズレているのは僕の方かもしれないとも思う。みんなが望んでいるのは現状維持であって、改革や挑戦ではないのかもしれないと。だけど問題が大きくなったり、自分に火の粉が降りかかったりすると、今度はみんなで大合唱するのだ。年金にしても道路にしてもそうだったように。

 10月3日(日)
 雨。相模線で橋本へ。斉藤さんに拾ってもらって南大沢にて大貫さんのフラメンコ発表会。初めてのフラメンコはなんかフォーマル感とルーズさの具合が何とも言えず、思いがけずリズムに少し酔った。想像以上に心地よく、眠れてしまうほどだった。僕にとってはこういうことは非常に珍しい。

 10月4日(水)
 フジテレビから「とくだね」の出演依頼と村社さんの取材の件、エア&シーからオマーンの件、中山くんからホテルの件など電話多数の一日。
 ラグビー協会会長の町井敏郎氏が2日に死去されたとのこと。町井さんは僕が小学校の頃に一生懸命見ていた早明戦で笛を吹いていた人。訃報によれば理学部出身で半導体の専門家であり、文化人でもあったとのこと。会長就任後、トップリーグの立ち上げ、ちょうどワールドカップ開催を宣言したばかりだった。合掌。ちなみに「ラグビーワールドカップ招致委員会」は今月発足する。

 10月5日(火)
 昨晩から昼ごろまで「アトランタ」の原稿。だいぶ進んだ。でもまだ送れる状態ではない。まずいな。困ったな。
 先日修理から戻ってきたばかりの電気ポットがまた壊れた。でも販売店(島忠)もメーカー(タイガー)も体温の感じられる対応だったので気分はいい。
 何だか知らないけど、気がつけばうちの中にハエが目立つなぁ、と思って電灯をまじまじと見たら5、6匹のハエが止まっていた。なんだ、こりゃ。

 10月6日(水)
 フジテレビの村社さんに取材。現在、民放サッカー界において目立つ存在である村社さんは1992年に「平成サッカーキッズ」というドキュメンタリーを作った人でもある。深夜枠でひっそり放送されたその番組を僕はたまたま見ていて、おまけにビデオに録画までしていた。そんなわけで昨晩再視聴したその番組を中心にこの10年間の日本サッカー界について伺う。
「サッカーはキー局ではなく、地方局が扱い、盛り上げていくべきソフト」など共感する意見多かった。いずれにしてもビジネスセンスと個人的感情が高いレベルで両立している人だったので、また機会を作ってゆっくり話を聞いてみたいと思った。ちなみに「平成サッカーキッズ」はアトランタ組のひとつ前の五輪チーム「バルセロナ組」を追ったドキュメンタリー。
 取材後、神楽坂へ移動して、半田さんと単行本の打ち合わせ@パウワウ。さらにその後、西部さんと合流してメシ飲み@きくずし。
 24時過ぎ、東海道線にて茅ヶ崎帰着。一旦帰宅後、平塚で飲んでいた実樹ちゃんとせっちゃんに合流(というか押しかけ)。

 10月7日(木)
 進捗状況がはかばかしくないので、予定表を作って一日ごとのノルマを決める。小学生の夏休みみたいだ。

 10月8日(金)
 朝まで原稿。ようやく進み始めた感じ。それでも昨日作った予定表よりは初日からすでに遅れている。
 朝方仮眠するが午前中に宅急便が3件。結局昼過ぎには起き出す。寝るな、寝ている場合じゃないぞ、ということだと思って。起床後、原稿書き。
 259本のメジャー最多安打を打ったイチローが国民栄誉賞を辞退。まず思いついたのは756本の王監督(もちろん当時は監督じゃないけど)が同賞を受賞した頃のこと。国体への出場を却下された彼が「国民」賞を授けられたときの心境はどのようなものだっただろう。
 あと王選手がハンク・アーロンを超えたときの日本中の騒ぎには、「アメリカを超えたぜ!」という敗戦国コンプレックスの名残りがまだ含まれたいたかもしれないなぁと。だからこそ、その裏返しとして「日本の球場は狭いから」といった自嘲もあったのかもしれない。それが今回はアメリカに乗り込んでの新記録である。確かに日本人も日本スポーツ界も変ったのだと思う。
 変った、といえば、こういうことに対して「偉そうだ」とか「失礼だ」という批判が起こった時代もあったなとも。そして国の権威が(本音だけでなく)公然と失墜したことを改めて確認する。国民としては政府の権威なんて失墜したって構わないが、でもこれを日本人、日本、と言い換えればどうなんだろうと考えて沈思する。自分、自分たちの国、と言い換えればなおさら。
 今日のグッドニュースは、ここ数日我が家を飛び回っていたハエがようやくいなくなったこと。今週僕は何十匹ものハエを捕らえ続けた。「今週のハエ殺し」ではたぶん世界トップランクに違いない。ハエの神様、ごめんなさい。

 10月9日(土)
 正直であるということと嘘をつかないこと、信じるということと裏切らないということ、自分を信じるということと相手に信じられる自分であるということ、などなどについて確信と逡巡を繰り返した一日。正直さは時に罪にもなる。少なくとも自分にも相手にも窮屈さを強いることにもなる。「幸せな関係」とは…なんてことでいまだに悩める僕はきっと幸せ者なのだろう。

 10月10日(日)
「とくだね」の収録&東京五輪40周年記念試合@国立競技場。行きも帰りも渋滞にはまって、ぐったり。約束の時刻にも1時間遅れてしまったし。おまけに話をしたかった鈴木秀人や服部もつかまえられず。

 10月11日(月)
 午後、ベルマーレのMDPを書いた後、夕方、羽田空港。関空経由でドバイへ。約11時間。半分くらいは眠れたので、さほど長くは感じなかったけど、背中の右脇が何だかすごく痛い。「内臓悪いんじゃないの」と仕事仲間に脅された。大丈夫、大丈夫!のはず。

 10月12日(火)
 早朝ドバイ発。午前マスカット着。ラマダホテルにチェックインした後、オマーンサッカー協会にADを取りに行く。が、すでに日本協会が持ち帰った後。うまくない。
 その後、7年前に来たときに泊まったノボテルホテル経由で、当時何度も通ったワールドレストランを探して歩く。スクランブル交差点を渡って、フリーウエイをくぐって、銀行の角を曲がって、この辺だったよな?と達也さんとキョロキョロ。96年のアトランタ五輪予選以降、達也さんと色んなところを旅してきたなぁと改めて実感する。
 ワールドレストランは(改装されたのか)以前あったテラスがなくなっていたけど健在だった。味も値段も健在だった。安くてうまい。それがアトランタ、フランス、シドニーを目指す僕らの旅の基本だったのだ。どこの街でもそんなメシ屋を見つけて過ごしてきた。
 予選なしの「2002年」というインターバルを経て、来年には「ドイツ」を目指す旅が始まる。悩みも多いけど(金とか仕事とか)、いよいよ始まるな、とワクワクしてくる。やっぱり「桧舞台」よりもそこまでの道のりの方が好きなんだな、僕は。
 食後、変なおじさんタクシー運転手に出会い、彼のワゴンでホテルへ戻り、夕方再び彼のワゴンで練習取材へ行き、やっぱり彼のワゴンで帰ってくる。どんなふうに「変」なのか説明できないけど、あるときは異常にハイで、そのくせちょっとしたことで落ち込み、かと思ってまた突然復活したりする変なおじさんなのだ。
 16時からの練習取材では報道陣のあまりの多さに、はじめ気後れしてスカしていた。でも、マスカットまで来てスカしていてもしょうがないので途中からちょっとだけ取材。
 晩飯はホテル裏のレストラン。杉山さんも加わり、よくしゃべり、よく笑う。ガソリンスタンド併設のコンビニで買出しの後、中山くんの部屋で雑談。0時ごろ部屋に戻り、すぐに寝る。

 10月13日(水)
 8時起床。外へ出てみるがまったく暑くない。僕的には快適な気候。普通の人にはちょっと暑いくらいかな。
 同じホテルの達也さん、中山くん、航次くんとホテルから徒歩5分の海へ。せっかくなので中山くんの短パンを借りて飛び込んでバシャバシャ泳ぐ。バシャバシャ随分沖まで泳いだけど、どこまで行っても腰よりも深くならなかった。海も空も真っ青で気持ちよかったけど。中東の海に飛び込むのはUAEに次いで2度目。オマーンの海は湘南とは比べものならないくらいしょっぱかった。
 30分ほど海にいてホテルに戻り、「アトランタ」の原稿。
 夕方、変なおじさんタクシーでスルタンカブーススタジアム。オマーンvs日本。国家吹奏のとき、ものすごく久々に込み上げてくるものがあった。ホントものすごく久しぶりの感覚だった。もっとも前半半ばにはすでにまったり。試合も(スコアは1対0だったけど)問題なく完勝。
 サプライズは試合前。突然サポーター席から「カワバタさん」と声をかけられ、振り返るとそこに青年というか中年というか男性が立っていて、一瞬「……」の僕に彼が「野球部の後輩の紺野です」。なんと津高野球部の3年後輩の紺野がそこにいたのだ。あまりの予想外の出来事にさすがの僕も気の利いたセリフのひとつも言えず、彼の頭髪に目をやりながら口から出たのは「おまえ、すごいな」。確かにかなりヤバイ状態ではあったが、第一声としては極めて不適格だったと反省する。
 ちなみに紺野は通商産業省のエリート官僚。いわば出世頭である。いや、そんな世間的な物差しはどうでもいい。紺野たちの代は三重県予選で準決勝まで進出したのである。あと2つ勝てば甲子園というところまで勝ち進んだのである。この一点において彼らはすごいのだ(そして、だとしても先輩である僕は彼よりも偉いのだ。このあたりが体育会のすごさなのである)。
 紺野の話によれば現在外務省に出向中でサウジの大使館で勤めているのだそうだ。それでご近所に遠征してきた「日本代表」を応援に来たというのである。
 そんな説明を受けている頃には彼の隣に女性がいることや、彼の表情にいまひとつ精気がないことに僕は気づいてはいたのだけど、シチュエーション的に(サポーター席とプレス席の通路の階段だった)落ち着いて話せる状況ではなかったので全部スルーして旧交を温めただけで別れた。後になって、あの女性は奥さんだったのかな、だったらちゃんと旦那さんを褒めたたえてあげればよかったなとか、仕事で悩みがあるのかもしれないなとか色々考えて、もっとちゃんと話をすればよかったと少し後悔した。もしも最終予選でサウジへ行くことになったら今度はゆっくり話をすることにしよう。
 試合後、変なおじさんタクシーでまっすぐ空港。おじさんは僕たちが帰国すると知って少し残念そうだった。僕たちが日本人にはあるまじきケチな客だったことに怒っているようでもあり、別れを惜しんでいるようでもあった。たぶん両方だったのだろうと思う。少なくとも、わずか2日の客であっても別れを惜しんでしまうくらいピュアでシンプルな心を持っている人に見えたので。あ、あとおじさんはとっても変だったけど、娘さんはものすごく美人だった。
 0時ごろマスカット発。トランジットのドバイ空港で腹ごしらえと着替え。ドバイから関空は往路同様、ほとんど爆睡。

 10月14日(木)
 夕方、関空着。20時半、羽田着。
 不在の間の新聞をめくっていて、また「ネット自殺」があったことを知る。ここ数年、どうにもこうにも気になって仕方がない。何が起ころうとしているのか、人はどこへ向かおうとしているのか。

 10月15日(金)
 早朝起床。出演した「とくだね」を見る。ワンコメントだった。にもかかわらず、田舎の友達とか御無沙汰の知り合いとかから電話やメールが来る。地上波の威力は本当にすごいのだ。地上波の人々は並大抵ではない覚悟と責任感で仕事に勤しむべきである。

 10月16日(土)
 13時ごろ寝て、夕方起床。
 日本シリーズでジャッジを巡って中断。バッターランナーがアウトになっていたにもかかわらず、ホースプレーでダブルプレーが成立してしまったのだ。はじめ中日の落合監督が抗議して、それによってジャッジが覆り(ホースアウトの方)、それに対して西武の伊東監督が納得しなかったのだ。
 いや、伊東監督がヘソ曲げるのも当然だ。そもそもプレートアンパイアのアウトのコールが曖昧だった。だからこそセカンドの審判もホースプレーをアウトとジャッジしたのだ。そして、その先のプレーが2本のレールに乗って流れていってしまったのだ。かと言ってバッターランナーが実はアウトになっていませんでしたというわけにもいかず、ねじれを元に戻すためにはホースプレーの方をセーフにするしかなく、ということはそこで下されたアウトのジャッジは間違いだったということになり……。
 そんなわけで長時間の中断の後、アンパイアが場内放送で顛末を説明した。が、その文言に伊東監督は力強く首を横に振り(テレビに映っていた)、結局、再度マイクを握ったアンパイアは「ミス」を認めた。
 前代未聞である。どんな競技でもレフリーは絶対だ。もし間違えたとしても一度下したジャッジを覆らない。しかし、今日のケースではどちらかのジャッジを反故にしないとプレーが成立しないという稀な状況だった。だとしても観客に向かってレフリーが「いまのはミスでした」と公言するなんてことは史上例のないことではないか。そこまでしなければ納得しなかった伊藤監督は大人気ないとも言えるし、勝負への強い執念を持っているとも言える。このあたりの判断は別れるところ。
 僕としては2つの別の競技を思い出した。ひとつは相撲。「えー、ただいまの協議の結果についてお知らせします。行司軍配は○○にあがりましたが、差し違えで××の勝ちにします」というやつ。相撲がスポーツかどうかはともかく、これはレアなレフリング方法(最近はビデオオフィシャルが導入されている競技もちらほらあるけど)。
 もうひとつは2年前の高校選手権予選決勝で起きた誤審。Vゴールが決まったにもかかわらず、レフリーがゴールを見逃し、結果的にそのチームが敗退したケース。明らかなミスジャッジ(しかも全国大会出場が決まるVゴールだったのだ)に救済を求める意見もあったが、結局サッカー協会は「レフリーは絶対」を堅持することを選択した。どちらが正しいのかは意見なし。どちらも正しいし、どちらも無理がある。でも、そもそもスポーツとは(そして人生だって)不条理なものなのだ。こういう結論はなかなか容認されないけど。ちなみに今日の日本シリーズの一件は「ミスジャッジではなくジャッジの伝達ミス」という位置づけに落ち着いた模様。
 夜。なんだかがっくりする。脱力感というか。怒りは抑えることができるけど、寂しさとか空しさってじわじわと込み上げてくるから、やるせなくて困る。頑張ることは苦手ではないが、頑張ってはいけない状態に僕はうまく対処できない。結果的に頭の中がメリーゴーランドになってしまって抜け出せなくなってしまう。ぐるぐる回るほど大切だということではあるけれど。
 3時ごろから「アトランタ」の原稿。

 10月17日(日)
 徹夜。11時ごろまで原稿。昼過ぎ、就寝。起きたら真っ暗で、時計を見たら20時だった。
 昨日のぐるぐるが今日は慈しみと寛容に変わる。この単純さが僕のいいところであり、面倒臭いところ。とにかく泣いた坊主が…的に上機嫌で、風呂掃除なんてやってしまうのだ。そしてお湯に浸かって、ああ極楽、極楽なんてぬくぬくしてしまうのである。よきにつけ悪しきにつけ、馬鹿である。
 3時ごろから原稿。相変わらず、うまくいかない。構成でいまだに迷っている。

 10月18日(月)
 ソフトバンクがホークスの買収に乗り出すことを発表。揺れに揺れたプロ野球再編騒動についに真打ち登場という感じ、ではある。でも、これはむしろこれまでにもあった通常の球団身売り(買収)と考えるべきなのではないか。バファローズとブルーウエーブ、ライブドアと楽天など一連の騒動とは一線を画する必要があるような気も。
 ワイドショーによれば高橋克典と鶴見慎吾が結婚するとのこと。二人とも僕と同じ39歳である。そして二人とも10歳ほど年下の嫁。ふーん、と妙な納得している自分に笑った。

 10月19日(火)
 難しいな。さじ加減を合わせるという作業は。僕からしたら信じられないというか、理解できないのだけど、相手にとっては「えっ?」ってことだってある。でも理解できないから意識とか衝動みたいな次元にまで話を掘り下げてしまう。そんなことをしても仕方がないことは重々わかっているのに。そもそも自分以外の誰かの意識とか衝動をなじるなんて不遜なことなのだ。
 にもかかわらず僕の意識や衝動はそれさえも厭わない。止められない。本当に面倒で厄介だ。自分自身でさえそう思うのだから、相手にとってはとてつもなく面倒で厄介に違いない。うとましがられても何の不思議もない。そしてそんなふうに順番に考えて、また気持ちが揺れたりするから本当に厄介で面倒くさい、というか情けない。
 3時ごろから原稿。

 10月20日(水)
 昼前に寝て16時ごろ起床。ソフトボールのミキハウスが今季限りで廃部に。「限られた予算の中でより効果的なスポーツ支援をするために事業の見直しをした」とのこと。柔道の野村、卓球の愛ちゃんはじめ、アテネ五輪選手13人を支援している同社だが、今後は個人競技に傾倒していくとのこと。ちなみにソフトボールではスルガ銀行も廃部になる。
 原稿。今晩中に仕上げなければならない。やや焦り気味。そして思っているようには進捗しない。書いても書いても、という感じ。やばい。3時ごろ1時間くらい仮眠をとり、書き続ける。

 10月21日(木)
 気がつけば昼。とりあえず5章まで送る。
 近鉄バファローズの元トレーナーが準強制わいせつ容疑で7月に逮捕されていたと社会面のベタ記事。女性2人に睡眠薬を飲ませてわいせつな行為をしたらしい。同トレーナーはすでに退職しているので「元」ではあるが、球団が知らなかったはずはなく、時期的にみて無関係ではないだろうな。

 10月22日(金)
 5時ごろ起床。昼過ぎまで原稿。朦朧としてくる。
 一場投手の獲得を巡り、巨人に続き横浜と阪神も現金を渡していたことが発覚。両オーナーが辞任するとのこと。一連の金銭授受疑惑は匿名の手紙によって指摘されたらしい。なぜ一場投手(だけ)なのか。なぜいまなのか。匿名の告発者が誰かによってすべてわかるのだけど。
 夕方、スーツをスーツを買おうと思い立ち、コナカ、青山、アオキを巡る。はじめて「紳士服」屋さんに行ったけど、なんかビッグカメラとかさくらやみたいな雰囲気でびっくりした。

 10月23日(土)
 昼過ぎに起床。久々ゆったり寝た。ちゃんと寝てちゃんと食べる。これは大切なことだし、幸せなことだとしみじみ思う。
 ここのところ内心をぐるぐるしているメリーゴーランドについて考える。要するに愛しさと切なさと心強さとについて。苛立ちの根はいつも己の中にあると確認し、溜息をつき、何らかの決着をつけようと試みる。でも僕の心は脆弱で相変わらずぐるぐる回り続ける。
 夜から原稿。

 10月24日(日)
 昼まで原稿。昼にちょっと海を見て、午後から夕方まで仮眠。起きた後、再び原稿。朝方、一通り書き終えて送信。
 マンチェスターユナイテッドの買収合戦を野村証券が応援しているとのこと。マンUはロンドン証券取引所に上場している。近年ヨーロッパではサッカークラブの上場が相次いでいるが、資金調達が有利に進められる一方でこうしたリスクも抱えているということ。今回の一軒では“乗っ取り”を狙っているのはアメリカの個人資産家、野村が資金支援しているのは買収阻止側。ちなみに現在のマンUの筆頭株主はアイルランドの投資会社なのだそうだ。
 交際を反対された男、35歳が相手の父親に右手小指を送りつけ逮捕されたとのこと。「この指の代わりに娘さんと一緒にさせてください」。方法論はともかく、相手女性が中学3年生ということもともかくとして、これもまた純愛と言えるのではないだろうか。

 10月25日(月)
 長沼健氏の金日旭中賞を祝う会@竹芝。現在サッカー協会最高名誉顧問の長沼さんは会長時代には「鉄仮面」なんて言われるほどに怖い人だった。でも会長職を辞して会ってみたら、ものすごくフランクでそればかりか慈愛に溢れ、なおかつ気概を感じさせる人だったので僕は驚き、いまやすっかり魅せられている。サッカー界の重鎮であることももちろんだが、日本人として男としてリスペクトする人である。そんな長沼さんだから、祝う会も真心のこもった温かい集いだった。信念を貫いて生きてきたからこそ、だと思う。人間の真価とはこういうふうに明らかになるものだし、こういうふうに明らかになる世の中であってほしいと思う。
 会の後、達也さん、平野さんとお茶。ちょっと昔の懐かしい話など。最近ちょっと回顧することが増えてきた気がする。僕たちもそんな年齢だし、サッカーもそんな時期なのだろう。
 うろん屋@大磯にて、せっちゃんと夕食。帰りに湘南平。湘南平の展望台には噂に聞いていた通り、本当にカギがたくさんぶら下がっていた。展望台から四方を眺めながら、あっちが相模川で、あの辺が競技場で、あの明るいあたりが…なんて話しながら、地元Pっぽい気分になる。大磯に行ったのも湘南平に昇ったのも初めてだけど、こういうことの積み重ねで地元Pの仲間入りができるような気がして、ちょっと嬉しい。気がつけば茅ヶ崎に越してきて1年だ。

 10月26日(火)
 ホークスの高塚元球団社長が強制わいせつの疑いで逮捕。「重大な法令違反」を理由に先月社長を解任さればかりだった。ちなみにホークスタウンの経営権は事実上アメリカの投資会社にすでに譲渡されている。
 夜中、浅田くんと長電話。ネタは地震、終末論、プロ野球などについて。その後もだらだら起きていて朝9時過ぎに寝る。

 10月27日(水)
 17時ごろ起床。まったく、ひどい。夕方、プレジデントの、いやキッカの鈴木さんからTEL。来週飲みに行くことに。俺もキッカの現在と青写真が気になっていたので。
 それにしても最近電話してくる人がこぞって「もうそろそろ終わったかなと思って?」と口にする。みんな俺が単行本で忙しいと知っていて、飲みの誘いを遠慮していたみたい。ありがたい気もするし、遠慮なんてしないでバンバン誘ってくれればいいのに、とも。おかげで仕事の依頼まで遠慮している人もいるわけで。単行本って肉体的も精神的も時間的にも大変だけど、それと比べて経済的にも釣り合わないんだよなぁ。だとしてもやりがいのある仕事ではあるけれど。
 夜中、風海コラム。朝までかかる。

 10月28日(木)
 徹夜。有価証券報告書への株主構成などの虚偽報告問題の余波で、堤義明前コクド会長がJOC、アイスホッケー連盟などスポーツ界の名誉職を軒並み辞任することに。「軽井沢」を皮切りに堤氏とスポーツと事業の関係は良くも悪くも拡大してきた。加えて西武グループの中核であるコクドが謎の多い組織であることは多くのジャーナリストが指摘してきたいわば公然の秘密だった。まだ大学生だった頃、堤兄弟の評伝を読み、彼らの父親、康次郎氏に憧れたことがあったなぁ、など思い出す。
 山本昌邦前五輪代表監督がジュビロ磐田の監督に就任。1992年のユース代表コーチ以来、10年以上も日の丸チームの現場を担い続けた指導者。代表での経験と理論をJクラブでどう発揮するか注目。言い換えれば、実は単独チームの監督を務めたことがなかった人が代表チームを率いていたということ。その意味で昌邦さんは、この10年ちょっとの日本サッカー界の奇跡的な、そして稀有なサクセスストーリーの一群に数えられる指導者でもある。彼も時代の寵児であり、申し子だったと思う。

 10月29日(金)
 9時起床。ジャケットを購入。それも2枚も。ひとつはツイードで、ひとつは革っぽい風合のやつ(実は化学繊維)。「もうじき俺も40歳だからさ、これからはアダルティーな格好するから」が最近の口癖。周りに宣言しながら自分に言い聞かせている部分もあるし、洒落というかギャグというかそんなことを言いながら遊んでいる部分もある。それにしても「2着目1000円」という紳士服店のシステムは僕には理解不能。ノセられてみたけど。
 夜中まで仕事して、その後ネットを回遊したりだらだらして、8時ごろ就寝。

 10月30日(土)
 湘南vs京都@平塚。雨。寒い。そして試合も負け。
 スカパーが「パリーグで球団が足りないならうちが持ってもいい」と会見でコメントしたらしい。えっ? そんなカネあるの? …と思ったら前期売上高は724億円、43億円の利益をあげていた。「時間の問題」だと思っていたのに、気がつけば黒字になっててびっくりした。

 10月31日(日)
 9時ごろ起床。「朝日」朝刊の書評欄に佐山さんが「日韓ワールドカップの覚書」をとりあげてくれている。そして見事に見抜かれていた。お礼とお気遣い感謝のメールを書かねば。
 昨日から「死亡」、「本人ではない」と錯綜したイラク人質事件の報道がやっぱり「死亡」。政府の情報収集能力(国民の生命財産への防衛能力についてはもはやその意思すら疑うが)ももちろんだが、通信社がこの手のことで誤報を流すのは看過できることではないのでないか。現地の状況、特派員の人となりはわからないけど。
 そして、相変わらず実家に誹謗中傷の電話をする奴が出ているらしい。バカは嫌いではないが、卑怯な奴は大嫌いだ。許しがたい。政府にしても、自業自得とセルフィッシュな責任感を振りかざす国民といい、この国は信用できない。その国の一員として立ち尽くすのみ。
 少なくとも僕は若者の冒険心を尊重する。たとえそれが無鉄砲なものであったとしても、そもそもが冒険とはそういうものなのだ。僕自身も人生をかけて冒険し、その分のリスクもとった。痛い目にもあったし、傷も負った。いつも言うことだけど、チャレンジとリスクはセットなのだ。リスクは怖がるくせにチャレンジを礼賛する。失敗しないように生きながら、夢や志を持てという。リスクを回避した乗り込むものはその時点ですでに挑戦ではない。夢とは失敗を繰り返しながら実現するものであるに違いない。あげくに居心地のいい楽な場所や立場に身を置きながら「自分探し」なんて都合のいい言葉で自らを容認する。そんなのただの自己憐憫であることに気づきながらモラトリアムを正当化する。愚痴をこぼしながら日々を過ごし、その同じ口で子供に夢や挑戦の大切さを語る。
 意識・無意識にかかわらず自らの中の矛盾に気づいているに違いない。でも、その根本に向き合う作業をする余裕のないままに、今日を終え、明日を終えながら、社会も人も老いていく。苛立ちながら。正当化するための装置はたぶん究極的には資本主義なのだろう。結果、夢や挑戦でさえも(癒しや個性と同じように)商品化されていく。
 …この手のことになると僕はどこまでも深刻に真剣になっていく。ただ、とにかく僕は若者の冒険心をスポイルしたくはない。もしもそれが無鉄砲なものであったならば、それをカバーし、フォローしてやれる大人でありたい。それは痛い目は傷を負わないようにしてやることではなく、痛い目や傷を負った後に「癒し」てあげられる大人でありたいということだ。そしてそういう社会を作る一人でありたいということだ。
 午後、風海コラム。夕方、何だかちょっと眠いなと思って横になってみたらそのまま寝てしまい、起きたら夜中の2時。単行本のリライト。結局、徹夜。



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2004年10月

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