
2008年12月
12月1日(月)
佐々木一浩@神宮。
子宮頸ガンから復帰した洞口依子。ますます可愛く、魅惑的。
母からメール。入院以来初めて重湯を口にしたとのこと。
12月2日(火)
プレジデントファミリーの原稿。
AAAの桑田桂祐ひとり紅白。昭和83年と銘打ち、昭和の名曲を一人で歌い上げる。何歌ってもうまいし、モノマネではなく桑田節。見事。それにしても昭和歌謡。ずっと一緒に歌っちゃったな。現代に連なる昭和、歌は世に連れの時代。
12月3日(水)
素子からメール。医者から余命を告げられたとのこと。その短さ。信じられない。人生は不条理で、神様は不公平だとやっぱり思ってしまう。それ自体が傲慢な考えだとわかってはいても。
「たとえ世界が終わっても」(野口照夫)。生きていく力、人生を歩み進めていく力を思い出させてくれる映画。芦名星が無機質さがいい。
12月4日(木)
プレジデントファミリーの原稿。途中、ダイジェストとかスポルティーバとか電話入って慌しい。ありがたいことだが。
何だか日々のことが面倒臭くて億劫で。風呂にも入る気力も出ない。
12月5日(金)
鹿取隆@八重洲。
イミわかんねぇ、と若者言葉。でも、イミなんてそもそもわかりようもないのだ。世の中も人生も、意味以前から存在し、意味以前から存在しているもので成り立っているのだ。意味に捉われてはいけない、と改めて、つくづく、思う。
12月6日(土)
福岡×湘南@平塚パブリックビューイング。1対3で負け、結局5位でフィニッシュ。願望を志と言い換え、棚ぼたを奇跡と勘違いして期待しているようでは勝負には勝てない。いや、勝負に向いていない。
ちなみにパブリックビューイングすぐそばの公園では交通安全のイベントが開かれていて、市長やら警察署長やらが大根を配っていた。
帰宅後、サッカーダイジェストの原稿。
「家あれども帰り得ず、涙あれども語り得ず、法あれども正しきを得ず、罪あれども誰にか訴えん」(川島芳子)
12月7日(日)
スポルティーバの原稿。ダラダラしていて進まない。
ラグビー早明戦@Jスポーツ。インジュリータイムで早稲田がトライ、ゴールが決まれば同点だったがポストに当たってノーサイド。22対24。好ゲームだった。解説は吉田義人。
夜中、スポルティーバの原稿改めて。マンちゃんがくしゃみ、鼻水垂らしてる。なのに、俺が仕事部屋へ行くと、こたつから出てついてくる。寒いからこたつに入ってなと連れ戻しても、しばらくするとまたPCに向かう俺の足下に。かわいい。
12月8日(月)
昼から由比ガ浜でサーフィン。俊ちゃんと。やっぱり俊ちゃんは何とも不思議なパワーのある人だと改めて。一緒にいるとなぜか陽気になり、気がつくと元気になる。一見、ものすごく俗っぽくて、掘り下げてもやっぱり俗っぽいのだけど、それだけでは語りつくせない。不思議な人、あまり出会ったことないタイプだと今日も。
夜、スポルティーバの原稿。西武のシンデレラピッチャー、岸について。
夜中、女子ボクシング@フジテレビ。富樫と菊池、壮絶な打ち合い。どの競技も女子の根性が最近目立つ。
12月9日(火)
未明、先日の福岡国際マラソンをビデオで。いつものようにランナー半分、風景半分で。その後、就寝、昼過ぎ起床。
午後から夜中、岸の原稿の続き。プレジデントファミリーの原稿直し。携帯サイトの原稿。
12月10日(水)
昨日よりさらにズレて、午前就寝、夕方起床。ヤマダ電機でeモバイルに加入。明日からの帰福に備えて。
夕食は今日も鍋。
12月11日(木)
当然のように完徹で福岡へ。空港から浜の町病院へ直行。母は前回と変わらない様子。三分粥を見て帰る。
父と近所のそば屋で夕食。ヴィックスの晩年、人事課長だった頃の話など初めて聞く。当時、人員削減の矢面に立たされていたのだ。いわゆる嫌われ役。当然組合からは敵とみなされ、会社から車でつけられたりしたこともあったらしい。仲間だった人ともきっとギクシャクしたはず。本来人が好い性格の父にとっては辛かったに違いない。俺が高校生の頃。まったく気づいていなかった。
夜から素子宅へ。おばちゃんのこと、うちの母親のこと、俺たちの時代と世代とのこと、あてもなく話す。
12月12日(金)
博報堂の豊下さんから仕事のTEL。僕にとっては極めて稀なことだが、今回は引き受けられない旨伝える。「親が死んでも仕事を優先させなさい」といつも口にしている母には絶対に言えない。
午後から病院。母の病室で夕方まで。帰りに大名界隈を歩く。三浦くんが住んでいた郵政官舎の大銀杏がいまも健在なのを眺め、徳永くん、中村俊紀くんの家の前を通り、紺屋町の江田くんの家がある横丁を覗く。懐かしい。柏野の美容院を尋ね、びっくりされながら少し話す。
智ちゃん夫妻と待ち合わせして、警固でスリランカ料理。明子さんは僕が結婚していたごく短い間に奥さんとも会ったことがある希少な人。最後はいつものように智ちゃんとビリヤード。未明まで。
12月13日(土)
今日も午後、病院。母とずっと話してる。
夜、ダイジェストの原稿。入替戦は磐田が仙台を2対1で破りJ1残留。もしかしてオフトの悲劇、再びか…という展開だったが、今回は逃げ切れた。
夜中、母のi-podにサザンの曲を入れる。
12月14日(日)
今日は母には内緒で、車で新行橋病院へ。素ちゃんのおばちゃんが入院している。医者の見立てを聞いていたので覚悟を持って訪ねたのだが、思っていたよりずっと元気な姿にホッとする。ホッとしただけではなく、子供の頃にいつも見ていた、いたずらっぽいニヤっとした微苦笑で迎えられて、嬉しくも懐かしくもなる。幼年時代ひ弱な都会っ子で、過保護な一人っ子でもあった僕は、まるで心の中まで見透かされているようなおばちゃんのニヤっが怖かった気がする。ストレートな物言いも苦手だった。
なのに、今日はそんなおばちゃんの物腰に、好感と尊敬を感じ、それどころかとても心地よかった。それどころか大人になるにつれて僕が好み、自分自身も目指すようになったスタイルと重なっていると感じた。僕の中に蓄積していたおばちゃんの記憶も、いまの「僕」という人間を形作る重要なピースになっているのだと気づいた。
そんなことを感じながら、しばらく楽しい時間を過ごす。子供の頃には太刀打ちできなかったおばちゃんと、ちゃんと向き合って話ができている自分を少し誇らしく思えたりもした。
もちろんそんな僕のノスタルジックでセンチメンタルな思いとは無関係に現実はある。久しぶりに、本当に久しぶりに会った栄一は憔悴していた。憔悴していたが、それでも母親に接するときの彼は気丈という言葉がぴったりで、何だか僕は感動してしまっていた。
しばらくおばちゃんの病室で過ごした後、椎田の昌子姉ちゃん宅へ。やっぱり久しぶりに会う昌子姉ちゃんは、本当に久しぶりなのにまったく変わってなくて驚く。まったく老いを感じない。あの頃と同じように、すでに50代も後半のはずなのに、初々しく、フランクで、昌子姉ちゃんのままだったのだ。さすがに小学生の頃に会って以来のカオリが大人の女になっているのには時の流れを感じたけれど。
みんなで沓川へ移動して、おじちゃんに挨拶して、おばあちゃんに「誰だかわかる?」と尋ねて(なんといきなり「康生くんやろ」と言ってもらえた!)、それからみんなでお寿司を食べに行く。長い長い間、御無沙汰し、ろくに義理も果たさず、そればかりか顧みることもしないで勝手に生きてきた僕のような親戚を、誰も彼もがごく自然に迎え入れてくれることが、しみじみとありがたく、嬉しい。そして、長い長い間離れていたというのに、この親しみは何なんだ?と、あまり感じたことのない温かさに包まれて、僕は戸惑ってさえいた。カオリやレオといった新しい親戚も含めて、この近しさと親しみが「血」によってもたらされているのだとしたら、僕はこれまで大事なものに気づかずに生きてきたのかもしれない。それは大きな損失だったと痛感する。
レオと素子と深夜帰福。素子と今日も話す。おばちゃんのこと、うちの母親のことが引き金になって、無常感が強まっている素子から「私に何かあったらレオを…」と俺に具体的なお願いをされる。やはりここ数ヶ月で、やっと少しだけ大人になった俺も大きくうなずく。
12月15日(月)
朝方、帰宅したので昼前まで寝る。起きたら父はすでにいなかった。いつものことながら実家に戻って数日が過ぎ、少しずつぎくしゃくし始めている。母が不在の分、父と息子の間に緩衝材がない。18歳で家を出て、要するに子供の頃しか一緒に暮らしていない二人の男が顔を付き合せてい続けるのは難しい。まして他人ではなく親子。でも子供から大人になっていく過程を飛ばしてしまっているからなおさらである。父からすれば、子供ではない息子との接し方に戸惑うのもわかる。
午後は母の病室。もしも、のときに連絡してほしい数少ない友人の話などをずっと聞いている。「骨を全部お墓に入れずに、一部でもいいから康生が持っていて。そうすれば、なんか空中を漂いながら康生のこと見てられそうな気がするから」とも。
夕方、病院を出て、長浜公園を回って大名第二公団へ。小学校の頃、毎日野球をして遊んだ公園。やっぱりこんなに小さかったっけ?といつものように。第二公団の屋上に登り、小学生時代に見ていた景色を飽きることなく眺め続ける。
父と家で夕食をとり、それからスーパー銭湯へ。一緒にできることはそうないが、一緒に行ける場所はある。
12月16日(火)
父と寿司屋でランチの後、病院。この寿司屋は、体調が悪く、珍しく病院へ行くことにした母が、その直前に昼飯を食べた店。滅多に外食をしない両親は、ここで昼ごはんを食べ、それから病院へ行って、ガンを告げられるのだった。
母の病院へ寄った後、今日は早めに辞して、素子宅へ。レオと公園で遊ぶ。レオは球技のセンスはなさそうだが、長い距離をずっと走っていられることを発見。
夜は智ちゃんと。ラーメンを食べて、ビリヤード。
12月17日(水)
朝、父をドームホテルまで送った後、帰宅して再び寝る。
昼に父を拾って一緒に病院。母は点滴がとれていた。顔色もよく、体重も少し戻っている。一緒に屋上まで階段で上がる。母にとっては久しぶりの外気。それから俺を送りに、また階段を歩いて一階の玄関まで。母は歩くのが好きだ。俺の散歩好きも遺伝だといまごろ気づく。
柏野と西鉄グランドホテルで待ち合わせ。今日は柏野が段度ってくれて、平井が料理長を務めるホテルのレストランへ。いつだったか大阪で会ったときには修行中だったヒラメは、立派な料理人になり、故郷に戻っている。俺なんかとは違って、地に足がついている物腰は、気後れするほどしっかりしていた。ヒラメが仕事を終えるのを待って、3人で大名小学校裏手、友井の尚文堂横のカフェで雑談。なんか柏野がいつもと様子が違う気がして少し気になった。疲れているのか、俺が何かよからぬことをしたのか。珍しい。
12月18日(木)
昼のANA機で離福。羽田からバスで新横浜へ出て、そのまま横浜国際競技場へ。遅ればせながらクラブワールドカップの取材を今日から開始。プレス受付にはさちえちゃんが手伝いに来ていて、俺の顔を見るなり、「お母さん大丈夫ですか」と気遣ってくれた。誰かから聞いたらしい。
5・6位決定戦を見た後、準決勝・マンチェスターU×ガンバ大阪。完敗ながらも3対5。何よりエンターテイメント性の高い面白い試合だった。金のとれるゲームだった。
川本さんに大船まで送ってもらって深夜帰宅。
12月19日(金)
午後まで爆睡。起床後、久々にジョグ。4キロ。7分台で。
昨晩は気づかなかったのだが、マンちゃんの様子がどこかおかしい、と思って観察していたら、なんと目が見えていないのだ。壁にぶつかるし、足下がおぼつかない。名前を呼びかけると、それでも俺のところへ寄り添おうと近づいてくる。しんみりとショックが込み上げる。
12月20日(土)
朝方、就寝。マンちゃん。目が見えないにもかかわらず、ベッドに上に飛び上がることはできる。感覚で覚えているのだろう。でも下りるときにはかなり躊躇している。手を貸したくなるが、そばで我慢して見ている。一緒に寝る。いつも以上に抱き寄せる。もしかしたら、寂しい病で一時的に見えなくなっただけで、寂しさがなくなれば見えるようになるかと思って。
午後、起床。やっぱり見えていない。母と同じ時期にマンちゃんまで…と考えて、ここ何年か心の中にうっすらとあった不安が浮かび上がってくる。母もマンちゃんも、俺よりも先に死ぬ、二人との別れに、いつか俺は直面するのだと、もう何年か前から俺は考えてきたのだ。
もちろん、それは「いつか」という漠然としたもので、それでも必ず訪れる「いつか」にたじろがないように自分に言い聞かせていたにすぎなかった。けれど、そんな準備は何の役にも立たないと思い知らされる。いつかがリアルになったいま、すでに俺はたじろいでいる。
12月21日(日)
クラブワールドカップ@横浜国際。3位決定戦と決勝。マンチェスターがV。
帰りに浅田くんと@バーミアン。話題は老後のことなどに。
何が一番大事か考えなきゃいけない。幸せになりたいのか、孤独でもやり遂げたいのか。とにかく、残り時間が少ないぞ、と色んなものから背中を押されてる気がする。早くやれ、と。
12月22日(月)
303に越してきたタケダさんからここに至るまでのファミリーストーリーの一端を聞く。サワリだけでもすごそうだ。
レオと両親にクリスマスプレゼントを買って贈る。
12月23日(火)
そのまま起きててバルボ、ブックオフ、ガソリンスタンドなどぶらぶら。
素ちゃんのおばちゃんからメール。嬉しい。母からもTEL。元気そう。嬉しい。
1990年の大河「翔ぶが如く」の島津斉彬「物事を学ぶ努力を忘れて過激に走り、空騒ぎをするだけではこの日本国は一体どうなるというのだ」。
夜中、オールナイトフジ復活版。あの時代の素人っぽさは、いまの素人にはもうない。
12月24日(水)
昼、携帯サイトの原稿。午後から夜、虚しさと徒労感に苛まれる。
12月25日(木)
6時ごろ寝て夕方まで爆睡。素子と実家からTEL。「プレゼント届いた。ありがとう」。素ちゃんのお母さんは、大阪にいた少女時代に一人で茅ヶ崎に来たことがあるそうだ。血縁を求めて。
飯島愛さんが亡くなったとのこと。渋谷の自宅マンションで、それも約1週間前に。彼女ほどの有名人が、大都会の摩天楼で孤独死。その登場がそうであったように、最後まで現代的なアイコンとして彼岸へ。本人が望むと望まざるとに関わらず、常にスキャンダラスなクイーンであり続けた彼女に安寧が訪れることを祈って合掌。
12月26日(金)
徹夜したのに何だか気力なくだらだらと。終日コタツで「翔ぶが如く」をマンちゃんとゴロゴロしながら。
午後辛うじて、ジョグ5キロ。7分ちょっとで。
テレビでやってたポロロッカ。アマゾン川の逆流。内陸800キロまで海水が遡るのだそう。いつか行きたいなあ。
12月27日(土)
早朝起床。セブンイレブンのバイト君、マキくん大学4年と、バイトちゃん、フルハタさん大学3年と内定率激厳の就職について。午前、年賀状。昼は久々にマナフード。
午後、うとうと。よって、夜は寝付けず。
12月28日(日)
徹夜。そのまま俊ちゃんとサーフィン@由比ガ浜。モモ〜腰程度。うねりあるが、いまいち割れず。2、3回いい感じで乗れたが、あとはパドルもNG。
夕方、うちへ移動して飲み会。今日のメニューは俊ちゃん手製の石狩鍋、ゲストは茅ヶ崎&平塚在住の女子2名。マンちゃんは、いつもと違って、一人でおとなしくしている。愛想を振りまくことはできないのかと思うと、悲しい。
12月29日(月)
午後まで爆睡。おかげで天皇杯準決勝には行けず。夕方からサッカー忘年会@渋谷。久々、朝まで。
12月30日(火)
7時すぎ帰宅。夕方まで寝。当然、夜は眠れず。
12月31日(水)
徹夜。午後、3時間ほど仮眠。恒例の腹筋100回、腕立て100回。夜、紅白。もっとも感動したのがジェロ親子だったところに、僕にとってのいまの「紅白」を感じてちょっと寂しい年越し。
いずれにしても今年はさびしい一年だった。僕自身は冴えず、僕の周囲は落ち着かず、母もマンちゃんも。
災いは一人では歩いてこない。大挙して押し寄せてくるものだ――ハムレットを、これまでとは違ったレベルの実感とともに噛み締める一年だった。