yamanashi

 山梨サッカー@韮崎・甲府   05.3.16〜17


 東京から中央自動車道に乗っておよそ2時間。談合坂を越え、大月JCTを過ぎれば甲府はもうすぐそこだ。
 甲府といえば武田信玄。戦国動乱期、天下に迫ったその旗印はあまりにも有名だ。
 疾(はや)きこと風の如し、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如し、動かざること山の如し――。
 孫子の兵法を範とする「風林火山」の4文字が、その意味するところといい、語感といい、いかにもサッカー的に思えることがある。
 風のようにピッチを駆け抜け、林のように整然とパスを回し、火のようにゴールを陥れる。そして大山のように悠々と勝利を収めてしまう。

 稀代の名将から400年後、21世紀のサッカー場に勇ましく翻る「風林火山」の幟(のぼり)を目にするたびに羨望と嫉妬を覚えるのは僕だけではないだろう。少なくともどこかのアングロサクソンやラテンのスタジアムからコピペした横文字のダンマクよりも闘志と忠誠心をかき立てられる気がする。脈々と連なる郷土の匂いが漂ってくるからだ。
 山梨サッカーここにあり。
 そんな心意気が伝わってくるではないか。
 プロサッカーリーグが誕生して13年目。輸入でも移植でもなく、その土地の風土と歴史が醸し出す濃厚な空気が充満するスタジアムがあちこちに点在する未来を僕は夢見ることがある。
 それこそ「百年」先の未来であることは十分承知。しかし、だからこそ夢見る権利も価値もある。

「はーい、サッカーをやりに来たお友達、集まってくださーい!」
 コーチのそんな掛け声とともに子供たちがボールを抱えてグランド中央に集まってくる。60人ほどはいるだろうか。まだ小学校にあがる前のまさにキッズたちである。
 まずコーチが自己紹介をし、子供たちに大きな声で返事を促す。いますぐにでも駆け出しそうな子供たちが、それに元気に答える。そして年齢別に3組に分けられた子供たちは、それぞれにコーチの指導に従ってボールを追ったり、鬼ごっこを始めたり、グランドを走り出した。キッズサッカー教室の始まりである。

 山梨県サッカー協会で旗を振るには理事長の渡辺玉彦だ。
「山梨県のサッカーは過去にはニラコウに象徴されるように全国的にもある程度の成績を残していました。でもJリーグの時代になり、サッカー環境ががらっと変わる中で取り残されてしまった。うまく対応できなかったのです。それで抜本的に考えを変えなければダメだなと感じて……」
 渡辺の言うニラコウとは山梨県立韮崎高校のことだ。選手権に出序すること31回、準優勝5回を誇る、言わずと知れた高校サッカーの名門である。輩出した名選手も枚挙に暇がない。とりあえずは羽中田昌と中田英寿を挙げておけば、昭和のサッカーファンからも平成のサポーターからも不満は出ないだろう。

 加えて、山梨にはもうひとつシンボリックなチームがあった。甲府クラブである。
 甲府クラブは1965年、甲府一高OBによる鶴城クラブが全国社会人大会出場権を獲得したのを機に、山梨県内の他校出身者も加えて結成された。1967年には関東リーグ入りし、その後、日本リーグとの入替戦にも何度か出場している。
 転機は1972年、日本リーグに2部が併設された時だろう。関東リーグ上位だった甲府クラブはこの2部発足と同時に日本リーグの一員となる。
 この時甲府クラブとともに関東リーグから日本リーグへ昇格したチームの顔ぶれが興味深い。藤和不動産、読売クラブ、富士通といずれも現在Jリーグに所属するクラブなのである(藤和不動産→フジタ→湘南ベルマーレ、読売クラブ→東京ヴェルディ1969、富士通→川崎フロンターレ)。
 日本サッカー界がプロリーグへと辿りつくまでのその後の20年間に、それぞれに紆余曲折はあるものの、ここにJリーグという大河へと流れ込むひとつの支流を見ることができるというわけだ。
 ちなみに甲府クラブはこの2部が発足した1972年から、プロ時代を迎え日本リーグが解散する(JリーグとJFLに再編された)1992年まで、20年間日本リーグに加盟し続けた唯一のチームである。1部に昇格することもなかったが、下位リーグに転落することもなく、もちろんクラブが消滅することもなく、山梨という土地に累々と存在し続けたクラブなのである。

 さらに特筆すべきは、企業チーム全盛の当時にあって、甲府クラブが地元で建設業を営む個人の後援者によって支えられていたチームだったことだろう。全国的なリーグに参加する強豪クラブが、個人のパトロンによって長年にわたって存続し続けたという事実は驚嘆に値する。しかも遠征費はもちろん、ホームでもアウェーでも前泊させ、そればかりか試合後には勝てば勝ったで祝勝会を、負ければ負けたで激励会を(もちろん自腹で)催したというから、その情熱には頭が下がるばかりだ。
 そんなクラブの中で、それぞれに仕事を持つ選手たちは強いファミリー意識で結ばれ、「下積み5年、選手3年、奉仕10年」という合言葉のもと、引退後もチームの運営に関わり続けたという(ヴァンフォーレのエンブレムに記されている「EST1965」は甲府クラブの創設年。またクラブを物心ともに支えた川手良萬氏は1986年故人となった。慎んでご冥福を祈るとともに、その尽力に敬意を表す)。

 甲府クラブのようなチームが長年存在し得た理由としてもう一つ付け加えておかなければならないのは、山梨県、とりわけ甲府、韮崎といったあたりが古くからサッカーが根付いている地域だったということだ。サッカー王国、静岡と接していることもあって、山梨県ではサッカー少年団の結成も早かった。
 そういえば羽中田を擁する韮崎高校が勝ち進んだ1982年の選手権決勝戦(対武南高校)の山梨県内でのテレビ視聴率は実に88・5%を記録している。山梨県とは実はそんな土地柄なのである。


 グランドでは年齢別に3つに分かれた子供たちがシュート練習やミニゲームに励んでいる。いや、励んでいる、というのは適当ではない。遊んでいる、と言った方がいい。
 とにかく、どの子供たちの顔も輝いている。見守る親たちも歓声を上げ、シュートを決めた子供にコーチが駆け寄ってガッツポーズで祝福する。
 この日、キッズインストラクターを務めていたのは横森潔。韮崎高校出身。「88・5%」がテレビで応援した選手権大会の右ウイングである。現在は養護学校の教員をしながら少年団の指導にも取り組んでいる。
 またコーチの中にはヴァンフォーレ甲府のウインドブレーカーも見える。キッズプログラムの開催にあたっては、ヴァンフォーレも全面的に協力しているのだ。
 コーチのアシスタントとして子供たちに混じって指導をしているのは緑色のジャージを着た若者たち。「山梨」、「緑のジャージ」とくればニラコウである。韮崎高校のサッカー部員たちもこの日のキッズプログラムに参加するメンバーというわけだ。

 さらに母親たちに混じってキッズたちを見守る長田奈美子は、保育士にして山梨県協会のキッズ委員会の一員。サッカー協会のホームページでキッズプログラムを知り、自ら委員会に飛び込んだ。勤務先の保育園ではキッズプログラムを積極的に取り入れて、子供たちにサッカーの楽しさを教えている。
 そういえばキッズ委員会が作成した1歳児から6歳児を対象にした指導マニュアル「親子スポーツの学び舎」は、CHQを通して全国のサッカー協会に配布された。そのイラストを担当したのも長田先生を中心とした保母さんたちだった。
 そんな手作りの小冊子の制作費は、地元の企業30社がスポンサーとなって拠出した。サッカー界のみならず、様々な職業や年齢、性別の人々が集ってこうして山梨県のキッズプログラムは成り立っているのである。

「地域に根差すということは、地域の皆さんにビジョンを理解してもらい、それを共有できるようにならなければダメだと思うんです」
 そう語る理事長の渡辺の夢はどこまでも広がっていく。
「まずは保護者の理解。これがないと話にならない。そのために子供だけじゃなくて親にも一緒に遊んでもらえるようなことをいま考えています。親たちにも汗をかいてもらうことでもっと興味が出てくるはずだし、サッカーがこんなに楽しいことなのかと理解してもらえるはず。それに親同士の口コミが広がれば、キッズプログラムを普及させやすい環境もできあがりますから。それから今後はキッズとシニアの接点も作っていきたいと思っているんです。これまでは年をとったらサッカーはもう終わりでしたが、これからはシニアにキッズの指導をしてもらったりして、そこでまたキッズへとつながっていくような、そんなエンドレスな輪を作っていきたい。僕はそれこそがサッカーだと思うんですよ。そんなことをあれこれ考えているとまだまだこれからやらなければならないことがたくさんありますね……」

*上記は「ワールドサッカーグラフィック」にて連載中の『誰がパスをつなぐのか』からの抜粋に若干の修正を加えたものです。

 というわけで一泊二日で山梨に行ってきた。
 キッズプログラムの現場で、県協会の渡辺理事長をはじめ、山梨サッカーを支える人々から話を伺った。また夜にはヴァンフォーレ甲府の高野(広報)さんからも飲みながら色々な話を聞かせてもらった。
 原稿にも書いたが、同行した中山くんが甲府出身であったことで、取材に血が通った気がする。少なくとも「地方」を考える上で僕は刺激を受けた。
 誌面にも書いた通り、生のサッカーを扱うのは「地方」=県協会以下の組織と人々である。その意味で、日本協会=「中央」と「地方」のコミュニケーションに着目することは、日本サッカーの未来を考える上で、不可欠な視線だと改めて思った。

 それから取材の準備段階で、原稿にも登場する長田さんからメールをいただいた。現在、彼女は保母さんであり、キッズ委員会の一員であり、ヴァンフォーレのサポーターだが、「現在」の前、つまりヴァンフォーレができる前は、ベルマーレを応援していて、しかも彼女がベルマーレのサポーターになるきっかけは、僕が書いた原稿(おそらく「J・PRESS」に書いた原稿だと思われる)を読んで、とのことだった。
「僕」についてはさておくとしても(もちろん書き手として僕は非常に嬉しく、誇らしい)、彼女の人生において「Jリーグ」が及ぼした影響は決して小さくない。彼女の積極的な人柄や勇気あるアプローチ、それに生き生きとした表情に触れて、僕は普段「ベルマーレ」で接するサポーターやボランティアのみんなの顔を思い出し、ホームタウンにJクラブがあることの幸福を再確認した。

 取材翌日は宿泊したホテル近くに太宰治縁の宿があるというので立ち寄る。太宰といえば青森という印象だが、彼の妻の実家が甲府であったことから、この地に居を構えた時期があり、その後も逗留することがあったらしい。
 甲府湯村温泉郷の中にある旅館「明治」がそれ。ひなびてはいるが廊下も階段もどことなく品格を感じさせる古い宿だった。何より案内してくれたお内儀さんとおぼしき女性の質素かつ品位ある立ち居振る舞いに感じ入る。
 太宰が執筆した「双葉」の間を見せてもらい、しばし夢想。そして、その部屋からもっとも近い便所(トイレではなく便所と言いたい)で用を足してみたりする。こういう時に僕はすぐにそういうことを思いついてしまう。それが僕の品格だ。
 ちなみに「明治」は値段も手ごろだということ。次回甲府に行くときには泊まってみたいと思う。

 その後、河口湖で中山くんオススメの「うなよし」で鰻を食す。非常にうまかった。それからおみやげは恒例にしたがって桔梗屋の信玄餅。

 後日談その1。帰宅すると、青森県金木町にある太宰の生家「斜陽館」の赤レンガ塀が雪で崩れたというニュースが待っていた。
 後日談その2。長田さんは4月の湘南vs甲府のゲームで平塚競技場に来て、もちろんアウェー側スタンドで、ヴァンフォーレを応援。試合後、僕たちは彼女と彼女の先輩を、茅ヶ崎の魚料理でもてなした。